服の中身が知りたくて……④
その人影ははっきりと浴場の中を歩いていた。康太はすぐに双眼鏡を手にする。サキだ。康太はそのシルエットを見て一瞬で確信した。
康太の中では先ほどの敗北宣言はすぐに取り消された。目の前に現れた勝利の予感に心奪われた。これは僕の粘り勝ちだ、自分の勝利の掛け声とともに全神経を浴場に引っ張る。
浴場の中でサキはバスタオルに包まれていた。裸でやって来ると思っていた康太のテンションがやや下がる。それでも、バスタオルから浮き出るシルエットは康太の目をくぎ付けにさせたが、今の彼はそんなものでは満足しない。
双眼鏡でサキの姿をとらえながら、康太は裸、裸、と正気をなくしたように訴える。さっきまでの彼の眠気は夜風と共にどこかへ飛んで行ってしまったようだ。
サキはそんな康太の目から逃れるように視界の外の流し場へ向かってしまう。今頃バスタオルを取っているはずだとしも見ることは叶わない。康太は足をじたばたさせ、危うくバランスを崩しそうになる。サキがシャワーを使っているのか、浴場の中に湯気が立ち始める。双眼鏡で中の様子が見えないわけではないが、先ほどよりもみえる解像度は明らかに下がってしまった。
あと少しで目的にたどり着ける。そんな状況の中、朝のサキの言葉が康太の中で繰り返される。
「今まで通りみたいな関係ではいられなくなっちゃいますよ?」
この言葉が何を意味しているのか、康太は何度も繰り返し口の中で繰り返してみても、その答えは見つからない。浴場の中の湯気は次第に濃くなり双眼鏡で見える景色を白く染めていく。
ここで引き上げることもできたはずだが、康太はすでに双眼鏡から目を離せなくなってしまっていた。サキとの間の大事な、非常に大事な何かが壊れてしまうかもしれない。心の中で鳴り響く警報を聞きながらも、康太はこれからやって来るサキの姿にすっかり引き込まれてしまっている。何か大きな罠の中に、知らない間にはまってしまっていたかのような感覚が彼を襲う。
いまでは、必ずサキはやって来るという、啓示ともいえるような謎の確信が彼の中にはあった。康太は今や瞬きもしないで浴場の中を凝視している。さっきまで繰り返していたサキの台詞は呪縛のように彼の頭の中で鳴り響く。
「今まで通りの関係、新しい関係」
康太は独り言のようにつぶやく。
湯気が真っ白に染めている浴場の景色の中に再び人影が戻って来た。湯気でよく見えないはずの中でもバスタオルを巻いた女の姿がはっきりと双眼鏡に映る。湯気はまるでサキの登場を強調するための演出かのように彼女の姿を引き立てる。彼女は窓から見える位置のちょうど中央に向かってゆっくりと歩む。横顔からはうっすらと視線を感じる。康太はその視線から目を離すことができない。
彼女は窓のちょうど真ん中に立つと、その背を康太の方に向けた。何度もメイド服越しに見てきたサキの背中が康太の目をとらえる。そしてゆっくりとバスタオルが床に落ちる。
ついに姿を現したサキの背中には大きな蜘蛛がいた。八つの足に丸い胴体、長い黒髪の中から康太の視線をとらえる姿は、ジョロウグモに他ならなかった。ジョロウグモは双眼鏡ごしにはっきりと康太の視線をとらえている。いまや見つめているのは康太の方ではない、康太はこのまがまがしい妖怪の獲物となり果てている。
康太は動くことができなかった。頭の中ではサキの言葉がずっと鳴り響いている。
「今まで通りの関係ではいさせない」
この言葉はもはや康太の未来を予告するかのように、彼の思考に直接働きかける。絡新婦に見つめられながら康太は必死に自分の思考を巡らそうとする。サキがどこからやって来たのかこれまで全く教えてくれなかったこと、決してその裸を自分に見せようとしなかったこと、あらゆる過去の思い出の中にいるサキの情報をかき集めてみる。これだけ長い期間一緒に生活しながら、サキの事が全く分からなくなった。他の家族は知っているのか、家にいたメイドの人達はどうなのか、わからない。
康太の手は震えていながらも、双眼鏡を離すことができなかった。逃げなきゃと思いながらも、見えない糸で結ばれてしまっていた。レンズの奥では、湯気が次第に濃くなり、ジョロウグモの姿がおぼろげになっていく。儀式の時間が終わったのだ。康太は震える足に何とか信号を与えながら立ち上がろうとする。頭の中で鳴り響く声はかなり小さくなったが、まだ双眼鏡から手は離れない。
康太は、やっとの思いで立ち上がる。木から飛び降りれば、この呪縛からも解き放たれるだろうと考えた。いざ、康太が木から飛び降りようとしたその瞬間、双眼鏡にはサキが哀しげに康太を見つめていた。距離が離れていても、その瞳ははっきりと康太を捉えていた。康太はそのまま深い眠りに誘われた。
次回、完結です。




