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私のエッセイ 5  作者: 宮崎香代子
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思い出の中の父

小学生の時 父をテーマにした作文で何か賞を頂いた事があった

それは父の良い所ばかりを描いて 哀愁めいた所は何も表現されていなかった様に思う

3歳年上の兄は祖父母に溺愛されていた

が 私は幼い頃から「お父ちゃんっ子」だった

父は私を色々な所へ連れて行って色々な体験をさせてくれた

遊び好きスポーツ好き子供好きの人だった

中肉中背であったが 相撲も野球もバレーボールも何でも上手だった

私に麻雀を教えてくれたのも花札やトランプ遊びの楽しさを教えてくれたのも父だった

そんな父だが タンスの中から母の着物を持ち出し 質屋に行ってはかけ麻雀に走り母を泣かせていた記憶もある

母は父が出かけようとすると必ず私を付いて行かせた でも喫茶店でお菓子とミーコー(オーレの事)をあてがわれ「それ食べたら帰りよ」と言って消えてしまっていたものだ

それでいて几帳面で 私も父の性格を引き継いでいると思っていた が それは違っていたのかもしれない

私もある面ではきっちりしているがどちらかと言えばアバウトで周りからは「天然」と言われる

「ケ・セラ・セラ」の性格は母そのものだ


父は幼くして両親と兄を亡くし お姉さん達に育てられたそうだ

姉が3人と父の下に妹がいた

そんな事情も有り

14歳で志願兵となり海軍に入隊

15歳 大平洋戦争の末期に 南方の海でアメリカ駆逐艦の魚雷を受け海に放り出され 何時間も漂流して 身体の中の小腸や大腸がお尻から出てきて自分のまわりにプカプカ浮いていたそうだ

もうダメと言う時に「天皇陛下万歳」ではなくて

幼くして亡くした「お母さん」と声に出したと言っていた

この戦争の話は何度も聞かされた

戦争映画を観るのも好きでよく連れて行かれた

人が来てお酒が入ると必ず戦争の話が始まった

私は父の胡座の中で子守歌のように話を聞き

ラバウル小唄を一緒に歌った

父は家に人を呼ぶのが好きで毎日のように誰か彼か来ていた


戦後 進駐軍で働き 夜学に通い資格をとって定職に就いた父は 当時の日本人が殆どそうであった様に真面目で勤勉だったようだ

私が小学生の頃は毎日の漢字練習を「そんなに一生懸命やらなくていい」と言って取り上げ 自分が百字帳に何ページも書いていたものだ

40代からはゴルフに凝り 元来の器用さと真面目さも相まってプロと一緒に回るほどの腕前になっていた

が 晩年はそのせいもあって万年腰痛に悩まされていた


私に子供ができた時はすごく喜び

長男が小学校に通い始めるまでは 長男と同年代の実家の近くの子供達を引き連れて さながら番長の如く遊びに夢中になっていた

子供達にとってはおじいちゃんと言うよりは友達感覚であったようだ

晩年「心臓が痛い」と言って救急病院へ駆け込んだが実は肺癌であった

80歳の誕生日には「鍋料理が食べたい」と言って

母と一緒に院内食堂で鍋焼きうどんを食べていたのに

翌日 自分が癌である事を悟るとそれ以来一切の食べ物を口にしなくなりそのまま自らの命を断ち切ったようだった

「戦争で一度死んだ命 美味しいものをお腹一杯食べれたら いつ死んでもいい」

と言いながら80歳まで生きてくれた父


父の死後 戸籍の整理などをしていたら

実は父は次男ではなくて三男である事が分かった

叔母さん達は皆亡くなっていて真相は分からないが

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