13. 泥船とウサギ
なんかエッセイみたいになりましたが、半分エッセイ半分物語です。
この主人公に感情移入してエッセイを書くとこうなるのかな…?
小説を書くための取材で、一度刑務所である死刑囚と面会をしたことがある。
彼の言い分は自己中心的で、独善的で、責任逃れを続けていた。私に言っても無駄なのだが、彼女はどうあっても、目の前に人が来たら、とりあえず言い訳をするらしい。
彼女の罪は、既婚男性を襲撃、身体の一部を切り取り、それを本人が生きている前で切り刻み、さらに本人の体に一日一度切り傷を入れた。栄養注射をいれつつの犯行であり、被害者は長期間苦しめられ続けた上で殺されている。そんなことを10年間、37件も行っていた。
何が恐ろしいか、“バレずに”“10年もの間”“37人もの人間に対して”犯行を行っていたことである。
実際に殺害されたのは35名、生き残った内1名は精神異常をきたし自殺、残った一名も廃人同然になったとのことである。この二名は同時に捕縛された被害者で、今も生きている被害者はもう1名の苦しむさまをまざまざと見せつけられたという。
犯行動機は「泥棒猫に惑わされる男が気に入らなかった」「間違いをただすため」と容疑は認めたものの、到底理解できないものだった。
それを基に私は、「パラノイア」を書いた。一人の女性がレイプに遭った直後から話は始まる。徐々に彼女は壊れていき、周りの男全てを信用できなくなる。そして、最後には凶行に至る。パラノイアとは、偏執病のことである。この作品では、彼女が自らの妄想にとらわれ、次々殺人を犯すさまを書いた。この作品は私の作品の中では唯一のサイコ・サスペンスであり、かなりの評価を得た・・・と自分で言うのもなんなのだが…ものである。実際名前が売れていたからもあるが、それでも私の作品が世に出るきっかけとなった作品の倍近く売れているのだから、自信をもって代表作といえるだろう・・・作風にはあっていないが。
もちろん、想像でえがいたものなので、ほぼフィクションのようなものである。殺害に至るまでの経緯・・・誘拐や監禁、そして方法も、全て私が勝手に考えたものである。ヒントはあったが。
作品レビューの中には、「作者が恐ろしい」といったものもあった。推理小説やホラーを書く人からすれば、それは素直に誉め言葉として受け取るのだろうが、私はそれを、私の内面にある残虐性(気づいていない深さにいて、何らかの拍子に現れてしまいそうなもの)に対したものなのかと恐怖した。
私はこんなことを思いついてしまう、それだけで。自らの作品で、人を殺してしまうかもしれない。
後にも先にも、私はサスペンスやホラーを書かなくなった。それは、この作品が原因である。
私は、出来るだけ多くの人が、彼らなりの幸せを感じながら暮らせることを願っている。
だから、私の作品は日常をイメージした、青春群像劇や初恋、もしくはコメディ、児童小説を書いていた。
書いている途中で、ふと思うのだ。このキャラクターがここで、振られるとしたら。ひっぱたくとしたら。万引きしたら。他人を貶めたら。犯罪を犯したら…。もっと、面白くなるんじゃないか、と。
私は私の面白い作品を書く気はさらさらなかった。他人に楽しんでもらえる作品を書きたかった。
悲劇はできるだけ避けた。それが一番話を盛り上げるとしても、私はすべてハッピーエンドにしたかった。 しかし。 あの時あの作品で、書くのをやめていたら。
今の私は。
話が終わっても、日常は続く。告白に成功しても、翌日には別れるかもしれない。人を助けても、次の瞬間はトラックに轢かれるかもしれない。
世の中は不確定なことの方が多いし、ドラマティックなエンディングしかないわけじゃない。
書けなくなったのは、そんなことを考え出したから・・・違うとは思うが、断言はできない。
カチカチ山では、ウサギが狸をだまし、最後には泥船に乗せて溺死させた。それは教訓で、悪いことをするとひどい目に合うから、悪いことはしてはいけない、という教訓を伝えている。
近年の作品では、狸が心を入れ替えるから助けておくれ、と、最後は狸が生きていることの方が多い。
狸がもし、改心していなかったら、ウサギはどうするのだろうか。もし、狸が快楽殺人者で、うわべでつぐない、その後も犯罪を続けたとしたら…
つくづく、私には想像力のないことが分かる出来事が多く起こる。なぜ?どうして?
理由なんてない物の方が、世の中には多いのだろう。それでも。
私が次に書く物語は、やはりハッピーエンドになるのだろう。




