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夜に輝くキノコの娘

「あ゛ぁー、すっげーふわふわする……」

 テングタケの毒にやられた俺は、幻覚の世界を悠々気分で飛行していた。

 さすが幻覚なだけあって、眼下に見える景色も幻想じみている。

 辺り一面にもこもことした雲海が広がっていた。

 相当高いところを飛んでいるのだと思うのだが、何か中国にありそうな背の高い岩山が、雲海の中から無数に飛び出しているのがちらほらと見える。

 崖から生えた広葉樹などは、まるで山の手足のようだ。

 雲を泳ぐようにして、節のあるドラゴンみたいな鳥が飛んでるわ、そのドラゴンを追っかけてキノコの娘が「トウチュウカソウ! 首をとるようにしてトウチュウカソウ!」とか叫びながら飛んで狩りをしているわ、もうわっかんねえなこの世界……


「大丈夫かしら、これ……」

 しばらくして、天の声が聞こえるようになった。

 恐らく、菩薩か何かだろう。

 女性の声だから、間違いない。

 豹柄のテングタケさんとはまた印象の異なる、静かな水面のような落ち着いた声色だった。

 てか、さっきから後頭部に柔らかい何かが当たるのを感じるんだけど……何だろうね、これ。


 深く考え込む前に、俺の注意は他へと向けられた。

 ズズン、と雲海で轟音が響いたからだ。

 やがて、波しぶきをたてながら、大鯨が頭を見せる。

 いや、鯨じゃなかった。これは……チャコの足じゃねえか!

 今日一番印象的だったから虚像として現れたのかな……?

 流石幻覚の世界。白タイツが眩しいぜ。


「すごい気持ち悪い顔になっているのだけれども……大丈夫なの、本当」

 うおっ! チャコの足が巨大なノートPCに化けただとッ!

 ああっ、企画書が、報告書が、まだ未完。まだ未完!

 ふえぇ、ブルーライトが眩しすぎるよぉ!


「今度はすごく顔色が悪くなったのだけれど……死んじゃわないわよね?」

 俺は恐怖から逃れるように、後頭部に感じる柔らかい何かをせつに求めた。

 寝返りを打つように空中で体勢を変えると、今度は顔に感触が当たるようになった。

 そのまま顔を埋めることにする。


「あっ、ちょっと……もうっ」

 柔らかい何かは、近頃の低反発枕に真正面から喧嘩を売っている、けしからんふよふよさを備えていた。

 鼻に感じる甘い香りと相まって、何かこう……癒されると同時に、エロい気分になる。


 もうキノコ狩りとか、どうでもよくなってきたわ。

 仕事に戻るのもだるいなあ。

 家に帰るのすら面倒くさい。

 現実に帰るのも、うーん……

 とにかく、後五分はこうしていたい。いや、十分。もういっそ、ずっとこのまま――うーん、うーん……!

 こうして、俺が正気を取り戻す頃には、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。


「……あら、起きたのね」

 覚醒した瞬間、大きなつばのある帽子をかぶった女性と目があった。

 宝石を思わせる真紅の瞳がこちらをじっと見つめている。

 肩ほどで切りそろえられた白い髪が、何処からか降り注ぐ緑色の光に照らし出されて、何とも神秘的な雰囲気を醸し出していた。


「あ、えっと――」

 俺はむくりと上体を起こそうとして、自分の身体が高機能ブランケットにすっぽりと包まれていることに気がついた。

 ……これは野営を想定して俺が持ちこんだ代物だ。

 倒れる寸前、無意識の内にバックパックから取り出したなんてことは――あるわけないか。

 大方、この女性が介抱してくれたのだろう。


「面倒見てもらっちゃったみたいで、すいません」

 倒れてそう時間の経っていない内に介抱してくれたらしく、身体はポカポカと温かさを保てている。

 夜の山は凍える程に寒く、焚火の有無は命にかかわるのだ。彼女が介抱してくれなければ、俺の命は危うかっただろう。

 って、テングタケのお姉さんのせいで俺の生命(おびや)かされてたのかよ。何て危険なイタズラだ……

 

「別に構わないわよ」

 彼女は目を擦る俺の言葉を聞いて、わずかに双眸そうぼうを細めた。

 俺は安心したように力を抜く。

 すぐさま低体温症になるような心配はないようだし、まだ毒キノコの幻覚成分が残ってるせいか、全身の感覚が変なんだよなあ。

 彼女の指が俺の頬のすぐ近くまで伸びてきた。

 陶磁器を思わせる透き通った肌が、キラキラと光り輝いている。

 何ていうか、非現実的な美人さんだ。

 多分、この人もまた普通の人間じゃないんだろうなあ……と、俺はこれまでの経験から予測する。

 その証拠とばかりに、彼女の背中からは小さな白い羽根が飛び出していた。

 ……やっぱ本物かな、これ。


「貴女も幻想キノコ界から?」

「そうだけど?」

 お姉さんの声に若干の棘が混じる。

 何だろう。何か気に触るようなことを言ったかな?

「えっと、何かお気に召さないことでも――」

 冷え冷えとした目で睨まれる。

 えー、マジで何なのよ。


「私の膝をさんざん顔で撫でくりまわした挙句に、まだ膝を枕にしたまま私と話そうというのかしら。良い御身分だこと」

「すんませんっした!」 

 自らの過ちに気付き、俺は慌てて飛び起きた。

 低反発素材なんて目じゃないくらいの安眠枕は、そのじつ彼女の膝枕だったのか。

 正直すげえ気持ち良かったです。すんません!


「まったく……」

 仏頂面で服の乱れを整えながら、彼女は腰をおろしていた落ち葉の絨毯じゅうたんから立ち上がる。

 ぱんぱんとはたかれた白いドレスから、輝く胞子がかすかに飛び散っていった。

 うーん、羽根も生えているし、まるで天使……いや、待てそういえば毒キノコに天使の別名があった奴がいたぞ。

 確か――


「あの、つかぬことをお訪ねしますが……」

「なに?」

「その、結構有名な毒キノコの化身でいらっしゃいますか?」

「そうよ。ドクツルタケの化身。アマニタ・ヴィロサ。ヴィロサでいいわ」

「ど、どどっ、ドクツルタケっ!?」

 俺の顔が真っ青になる。

 ドクツルタケは「猛毒御三家」なんておっかないカテゴリーの中に含まれる猛毒のキノコだ。

 その毒性は日本有数で、謝って口にしてしまえばほぼ確実に死ぬ。

 内臓がぼろぼろになるのだ。そのため、運良く生き残ったとしても人工透析をして余生を過ごすことになる。

 ちょっと俺、胞子吸い込んだりしてないよな……?

 俺の慌てた様子がよほどおかしかったのか、ヴィロサは機嫌を直してくすくすと笑っていた。


「大丈夫。私を吸い込んだりなんかしてないわよ。こちらで放出を止めていたからね。私の毒は命にかかわるから、それくらいはしてあげているわ」

「あっ……すいません。折角介抱してもらったのに、失礼なこと言っちゃって」

「良いわよ、別に。私たちを恐れる人間の方が、可愛げがあるし」

 ほころんだ笑顔は可愛らしいが、言葉の端々に妙な迫力を感じさせる女性だった。

 何だろう、この大物感。一言で言えば、ボスっぽい。

 ステージ分けするなら、六面あたりに鎮座してそう。


「それに、恩義を感じる必要はないわ。もとは謝罪を兼ねてのことだったの」

「え、何のっすか?」

「昼間、あの子たちに散々からかわれていたじゃない。私も遠くから見ていたから。災難だったわね」

「あー……」

 俺は昼間の殺到を思い出して、げんなりしてしまった。

 同定。同定。同定。同定。

 結局、キノコ狩りできてないんだけど……

 バックパックの中身はお土産でぱんぱんだよ、もう。


「面白がって見ていた側が言う言葉でもないけど、気を落とさないようにね。あの子たちも悪気があったわけじゃないのよ」

「そういえば、六ボス――いえ、ヴィロサさんはあのお祭り騒ぎに参加しなかったんですね」

 自分でドクツルタケと名乗ったあたり、彼女は人間に同定される行為に対して、特別な感情を抱いていないようだ。

 キノコの娘全員が傍若無人ってわけでもないのかな。


「あれらは皆、人間が大好きなキノコの娘ばかりだから。勿論、他の子が貴方に興味がないってわけじゃないけれど」

「他の子?」

「ええ、今も貴方のことを、"皆"が見ているわよ?」

 意味深な言葉と共に、彼女はいたずらっぽく笑う。

「あっ」

 ここに至って、俺は今この場にいるのが俺とヴィロサだけでないことに気がついた。

 周囲から向けられた無数の視線。

 暗闇の中でぱちくりと瞬きする瞳の群れは、まるで蛍のように自ら光を放っていた。


 ……人間だ。人間だ。アレは人間? 人間ぽいね。人間かしら。


 ざわざわと雑木林の枝葉が風で揺れる音に混じって、彼女たちの忍び声が漏れ聞こえてくる。

 橙や緑、水色や赤色。

 現実ではありえない色合いを見せる瞳から読み取れる感情は、大部分が好奇のそれだった。

「もしかして、周りを囲んでいるのは皆……」

「……そう、キノコの娘よ。そのほとんどが致死性の猛毒を持つ、ね」

 背筋に冷たいものが走った。

 昼間のどんちゃん騒ぎにすっかり油断しきってしまっていたが、彼女らはそもそもが"人ならざる存在"である。

 この世界の人間に危害を加えない保証なんて何処にもありはしないのだ。

 俺は自然と逃げ場を求めて上を見上げる。


「わ、わっ」

 樹上にも、キノコの娘がひしめいていた。

 ぼんやりと緑色の光を全身から放つ少女たちが、木々の枝に腰かけ、こちらを見ている。

 どうやら、辺りを照らしていたのは彼女たちの生物発光によるものだったらしい。

 道理どうりで月明かりにしては変な色だと思ったんだ。

 俺は呆気にとられつつも、彼女たちから目が離せなかった。

 それは目の前に広がるこの光景が、あまりに非現実的であったため、実感が湧かなかったからというのも一面にあったのだろう。

 だが……それ以上に、彼女たちを"綺麗"だと思ってしまったことが大きいように思う。

 昼間のキノコの娘たちよりも一層、夜の彼女たちは"人でない存在"としての特性が際立って見えた。

 黒を基調としたゴスロリスカートの裏側がほんのり光を発している。

 その光に照らし出された黒いドロワーズ……


「はっ!? ライトアップされたドロワーズ!?」

「きゃあっ!」

 下着を見られたと気付いた少女が、可愛らしい悲鳴をあげて慌ててスカートを手で押さえる。

 無心になっていたあまり、心の声が外に出てしまったようだ。


 ……変態だ。変態。とんだ変態さんですね。へんたい、へんたい、へんたーい!


 好奇の視線が軽蔑のそれへと変わっていった。

 あっれれー、おっかしいぞー……何だか風向きが変わってきたっぽい? 

 チャコと違ってセクハラに厳しい。

 仕方ないじゃねーか! 下着がライトアップされてりゃ、誰だって驚くだろ普通!

 そんなに見られたくなきゃ規制してくれ!

 何か、Tレ東で良く見る白いビームみたいなやつを魔法で生み出せば規制いけるだろ!


「……何と言うか、貴方って存外肝が太いのね」

 俺とキノコの娘たちのやりとりを見て、ヴィロサは苦笑いを浮かべていた。

 確かに俺も驚いた。俺ってこんな度胸が据わっていたんだな。

 心なしか、可哀想なものを見るようなまなざしになったことについては、深くは考えないことにした。


「彼女らも、俺のワキガに寄せられたって感じです?」

「ワキ……えっ、いや。今、何て?」

 ヴィロサは俺が何を言っているか分からないといった様子であった。

 この人もこんな間の抜けた表情するんだ。

 しかし、他人様にワキガのこと詳しく話すの嫌なんだけどなあ……

 話さなければ始まらないだろうと決意した俺は、しょんぼりとしつつも事情を説明した。


「何か俺のワキガは卑猥な匂いがしてるらしくて、それで皆寄ってきたらしいです」

「それ、ワキ……何とかじゃないわよ。からかわれただけでしょ」

「何だって!」

 予想だにしない答えに、俺は大声をあげてしまう。

 キノコの娘の包囲網が、さーっと遠くに退いていった。


「そもそも物理的な匂いなら、貴方にだけ彼女たちがたかる理由がないじゃない」

「あっ」

 それは確かにそうだ。

 ワキガの人間なんて、別段自分以外にもたくさんいる。

「だったら、何の匂いに釣られたって言うんですか?」

「彼女たちは、貴方から感じる"非現実を求める匂い"に釣られたのよ」

 ……東京都の条例関連かな? いや、あれは"非実在なんたら"か。

 俺が首を傾げていると、彼女はさらに問うてきた。


「貴方、山に入る時に"日常から遠ざかろう"と思っていなかった?」

 これには心当たりがあった。

 そもそも、俺は五年無休で疲れ果てた心を癒すため、"日常から隔絶された静かな空気"を求めて秩父にやってきたのだ。

 もしも"非現実を求める匂い"とやらが現実逃避によって醸し出されるものだとしたら、俺はもうぷんぷんと匂っていることだろう。

 俺の中で、すとんと何かが腑に落ちた。


 そもそも、G級のプロハンたちと俺。何が違うのかと思ったらそこだったのだ。

 プロハンたちは、日常の延長線上で山に入る。キノコの収穫量が彼らの生活と密接に関わっているからだ。

 恐らく彼らは、"現実を求める匂い"を発していることだろう。

 対する俺は気分転換を目的に山に入った。別にキノコがとれなかったからといって死ぬわけではなく、ひとときの逃避を楽しみに来ただけである。


 ――他にも山を歩いてる人いたけどー、何だかみんな怖そうな匂いがしたんだよー。


 チャコの言葉が思い起こされる。

 幻想キノコ界の住人にとって、"現実を求める匂い"というのは思わず避けたくなってしまうほど怖いものなのかもしれない。


「現実から片足を踏み外しかけてる人間は、異界の存在からしてみれば、とても接触しやすいのよ。神隠しって分かるでしょう? 貴方の"離れ"具合を見てみると、隠される寸前だった……といったところかしら」

「なんてこった……俺は、現実から離れかけていたのか……ん?」

 それはそれで大問題なのだが、俺はそれ以上に看過できない問題に気づいてしまった。


「貴方に限ってはからかいがいもある――寄って集られた理由はそれね」

 ヴィロサが何か言っているようだが、耳に入ってこなかった。

 ……結局、俺は物理的に臭いのか。それとも、臭くないのか。どっちなんだろう。

 彼女の説明ではそこがよく分からなかった。


「ボス! 結局俺の物理的な匂いはどうなんでしょうか!」

「えっ、ボス? 匂い? えっ?」

 ヴィロサの戸惑いは相当なものだった。

 そりゃあそうだ。

 突然意味深な話をぶったぎられて、「俺の物理的体臭はどうなんだ」なんて聞かれたら、誰だって戸惑う。いや、どん引きする。俺が聞かれた側なら、こいつはそういう性癖なのかと深読みして、即座に国家権力に通報するまで考えるかもしれない。まさに事案ものの質問であった。

 だとしても、俺は聞かずにはいられなかったのだ。


「もし、臭くないのなら! 電車内で俺を臭いとか言いやがった、あのJKが節穴ってことになるんですよっ! いや、キノコの娘だった可能性すら、あるっ。あるっ!」

「えっ? いや、それは」

「どうなんですかっ!」

 ずいっと、彼女へ歩み寄る。

「ちょっと! 近いわよっ。近すぎだって! 介抱でもなしにこの近さは、特別な関係じゃないと駄目っ!」

「さあ、是非とも嗅いで答えを聞かせていただきたいっ」

「た、たたた他人の物理的体臭を嗅ぐなんて、その――あっ、貴方まだ幻覚見ているのね! あの子、何て置き土産を!」

 まるで団地妻と間男のようなやりとりが、夜の山中で繰り広げられる。


「このっ! いい加減、正気に戻りなさい!」

 仕舞しまいには業を煮やしたヴィロサによって、頬を思いっきりはたかれた。

 俺は正気に戻った。



「まったく、もう……」

 彼女のふくれっ面の前では、俺は平謝りする以外為す術がなかった。

 しばしして、ようやく土下座以外のポーズを取ることを許された俺に、ヴィロサはある提案を投げかけてくる。


「もし、日常が本当に嫌なら、非日常に連れて行ってあげましょうか?」

「どういうことで?」

「神隠しの説明はしたでしょう? 幻想キノコ界へいらっしゃいな、と言っているの」

 俺はぎょっとして、言葉を詰まらせた。

 マンガやアニメやラノベなんかで目にしてきた、異世界へ行くチャンスなんてものが、まさか自分に訪れるとは思っても見なかったのだ。


「昼の子たちが、菌活なんて言っていたと思うけど……要するにあれは外の風をとりいれましょうってことなのよね。閉じた世界というのは、とても退屈なの。だから、外の人は大歓迎よ?」

 静かに微笑む彼女の言葉には、嘘偽りが混じっているようには見えなかった。

 どうやら、本気で俺を異世界へ誘っているみたいだ。

 これは冗談と笑っちゃ、失礼に当たりそうだなあ……

 そう思い、俺は自分なりに異世界行きについて、真剣に考えてみることにした。


「ええと、数点お伺いしたいことが……」

「どうぞ」

「まず、異世界入りするに当たって、俺はもうこちらには戻ってこれなくなるのでしょうか」

 俺にも故郷に家族がいる。今生の別れというのはなるべく避けたかった。


「戻ってくるのは可能だけれど、時間の流れがずれているから、人間の身では戸惑うかもしれないわね」

「どれくらい、ずれるんです?」

「あちらの一日がこちらの十年になるかもしれないし、こちらの一日があちらの十年になるかもしれないわ」

 なるほど、下手をしたら浦島太郎になる可能性があるわけだ。

 異世界入りは覚悟が要ると考えて良いかもしれない。


「二点目ですが、あちらで俺は平穏に生きていけるのでしょうか」

「それは十分可能ね。幻想キノコ界は平和で豊かな世界だから、食べ物に不自由はしないでしょう。生活レベルも大して変わらないんじゃないかしら? 雑貨も、コーP生協で買えばいいし……あ、コーPってこちらにもあるの?」

「ああ、ありますね……」

 Zクシィだけじゃなく、コーP生協まで異世界にあるのかよ! 普段世話になってるから、文句言えねえよ、畜生!

 とりあえず、異世界に行っても生活レベルの維持が可能なことが判明した。

 もし、こちらで食いっぱぐれても完全移住してしまえば生きてはいけるわけだ。


 うーん、ならば後は異世界入りする動機かなあ。

 突然の誘いだったせいで、俺には異世界に行くにあたっての明確な動機や目的が存在しない。

 何か数の決まった秘宝を集めなきゃいけない理由があったり、倒さなきゃいけない敵が俺にいれば話は早いのだが、生憎そんなドラマチックな人生は送ってこなかった。


「どうしても、俺にしてもらわなきゃいけないことってあります?」

「特にはないわね。退屈しのぎの招待だから。程良くキノコの娘たちと遊んでくれれば、それで良いわよ」

 美少女たちに囲まれて過ごすというのは確かに悪くない。

 悪くないのだが……美人は三日で飽きるという言葉があるように、それだけでは動機として不十分なのは確かだ。

 ことは今後の人生の終幕にまで繋がる選択である。決心を固めるには、まだ材料が足りなかった。

 俺は腕組みをして、考え込んでしまった。


「踏ん切りがつかないのなら、メリットとデメリットを考えてみたら?」

「そうですね、そうしてみます」

 まず、異世界入りして何が得になるかと言われれば、地獄のような社畜生活から解放されるということだった。これは非常に大きいと思う。

 毎朝五時に起床して、終電で帰宅する生活に終止符が打てるのだ。

 心身共に健康になりそうだな。


 デメリットは、この世界との縁が薄くなること。

 家族や学生時代の友人と連絡が取りづらくなるのは、やはり悲しい。

 それに、会社には苦楽を共にした仲間たちがいるのだ。

 俺は瞼の裏に、会社の皆を思い浮かべた。

 呪われてしまえと睨んできた女上司(三十)……

 休暇が取れずに、凄まじい速度でフレッシュさが失われていく後輩の藻部くん……

 俺に仕事を押しつけていく社畜のガチ勢たち……

 うん……会社の方は、別れてもあまり悲しくないな。

 むしろマイナスに振り切ってるし、差し引いてメリットのが強いわ、これ。

 現実と非現実を秤に掛けて、俺の心は非現実に傾いた。


「決めました」

「聞かせてちょうだい」

 俺が答えを口に出そうとしたその瞬間、


 ルルルルル……


 地面に置いたバックパックから、聞き慣れた着信音が鳴り響いてきた。


「あら、ケータイ?」

「あ、はい。キノコの娘でも分かるんすね」

「Dコモは電波通じてるから」

「ああ、あそこそういやキノコのマスコットだったっすね……あれ、そういう繋がりなんだ……」

 俺は異世界における日本企業の進出状況に若干戸惑いを覚えつつも、聞かなかったことにしてケータイを取り出した。

 着信元は……会社の女上司であった。

 うわあ、すげえ出たくねえ……

 とは言え、別れの挨拶もせずにさよならできるほど縁の薄い関係ではなく、俺はげんなりとしつつも通話ボタンをタッブした。


「ああっ、通じたか! おい、俺くんっ。悪いが休暇を切り上げて、今から帰ってきてくれ! プロジェクトの危機なんだっ」

 いきなりの帰還命令である。

「ええええっ……ここ、秩父の山奥なんですけど!」

「藻部くんが血を吐いて倒れたのだ。この手があったかと、他のみんなも感心している!」

 そこは感心するところじゃないだろ!

 おそらく動転していて、女上司自身も何を言っているのか分かっていないのだ。

 スマホから聞こえる彼女の声は、修羅場ふだんの何十倍も切羽詰まっていた。


「君が明日までに間に合わないと、我々は路頭に迷うことになるかもしれないんだ! 頼む! 私は、王子様が現れるまでは死ぬわけには行かないんだ!」

 婚期が心配だったのか。

 しかし、相変わらずのシンデレラ願望であった。女上司も神隠しされる才能ありそうだな、これ。

 俺は何だか面白くなってきてしまって、笑い声をあげてしまった。


「何を笑っているんだ! ふざけているのかっ!」

「い、いや、そうではなく。くく、ふひひ、ふひひひっ!」

 真面目な奴ほど社畜になりやすい傾向にあると誰かが言っていた。

 俺は、会社から電話がかかってきた瞬間、心の何処かでほっとしたのを確かに感じ取っていたのだ。


「あー、はいはい。分かりました。間に合うかは分かりませんが、とりあえず帰ります」

 少なくとも、こんなみっともない電話までかけられて、早く帰ってこいと言われたら、安易に異世界に逃げてしまうわけにもいかないだろう。

 夢見が悪いのは好きじゃない。

「本当か! 本当なんだな!?」

「本当ですよ。まあ、頑張ってはみます」

 俺は心持ち明るい声でそう返すと、スマホの通話を打ち切った。


「お話は終わったかしら」

 ヴィロサは静かに、待ってくれていた。

「はい、えーと」

 折角彼女が誘ってくれたというのに、結果としてその提案を袖にすることになってしまった。

 何とか傷つけない断り方があるといいんだが……俺は自身の中にあるボキャブラリーをひっかき回し、最適と思われる台詞を引っ張り出そうとする。


「貴界のますますのご繁栄を心よりお祈り申し上げます」

 あ、駄目だこれ。口に出してから後悔する。

 外向けのテンプレ返信に慣れてしまった弊害であった。お祈り返信とかもらって傷つかない奴がいるわけねえだろ! 俺!

「何それ」

 だが、存外ヴィロサには受けていた。

 口元に手を当てて、面白そうに笑っている。


「じゃあ、ここでお別れね?」

「そうですね。何だかんだ言って楽しかったんで、もし機会があれば、また会えたらなあとは思いますけど」

 幸い、野営準備もしていなかったため、手早く帰り支度を済ませてしまう。

 俺は懐からコンパスを取り出して、人里のある方向へと目を向けた。

 ええっと、下山にかかる所要時間は……およそ五・六時間といったところかな。

 これマジで間に合わなそうなんだけど……

 俺はげんなりとしながらも、脇目も振らずに人里へと足を進める。

 辺りを包みこんでいた幻想的な緑色の光は、すっかり遠ざかってしまったようであった。

 今は木々の切れ間からやんわりとした月明かりが降り注ぎ、山中の夜道を照らすばかりである。

 ヴィロサは静かに俺を見送ってくれているようであった。

また(・・)、会いましょう」

 そんな言葉が風に運ばれ、秋の夜空へ消えていった。


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