またおいで
十年の月日が経ち、僕は家族を伴って、懐かしいこの地を訪れていた。全く変わらぬ景色に、思わず顔が綻ぶ。やがて民宿が見えてくると、三歳になったばかりの娘は声を上げてはしゃいだ。
「ねえ、パパ、ここに泊まるの? お化け、出る?」
変わった子供で、お化けや妖怪の類が大好きだ。妻の菜採は、あなたに似たのよ、と咎めるように言うが、その根拠は解っている。十年前のことを言っているのだ。
僕が林間学校から戻ると同時に、彼女たちのクラスが出発したため、詳しい話は何もできないままだった。しかし、僕がしたのと同じように、あの民宿の公衆電話から電話をかけてきた菜採は、こんなことを口にした。
『友達と、肝試しをしたの。懐中電灯を持たずに、遊歩道を何処まで行けるか』
果てしなく続く木の道に、フクロウの声。月が煌煌と照らす湿地で、夜の生き物がうごめく。怖くてそれ以上進めなくなった菜採は、立ち止まった。
『何処からか、笛の音が聞こえたの。そしたら、それまで怖くてたまらなかった気持ちが、消えちゃった』
暗闇にいるような気がしていた得体の知れないものが、忽然と姿を消したのだと。まるで月の光が邪悪なものを消し去ってくれたかのように。
菜採とは、あのとき浮気をしなかったことが大きく評価され、その後もずっと一緒だった。結婚という言葉が現実味を帯びてきた頃、二人は結婚し、すぐに娘が生まれた。浮気という言葉の持つ、魅惑的な響きはあの時のまま心にあったが、それは言わない。元はと言えば、菜採が植え付けた種なのだ。
「菜採、林間学校で肝試しをしたとき、池には行かなかったのか?」
僕が尋ねると、随分前のことを聞くのね、と驚いた顔をする。
「行ったよ。でも、何もいなかった。ただ、池の水面に、綺麗な月が映ってただけ」
その答えに満足した僕は、はしゃぐ娘を抱き上げ、あの頃のままの民宿にチェックインした。
夕飯のあと、早々と風呂を済ませた僕と娘は、夜の虫を探しにいこう、と言って民宿を出た。虫嫌いの妻は当然、部屋で待っていると言う。それも計算の上だった。
「音葉、肝試しをしようか」
こっそり、耳元で囁くと、娘は嬉しそうに目を輝かせた。
空の虫かごを振り回しながら歩く娘の後ろを、懐中電灯で照らしながらついて行く。一本道の遊歩道は、民宿から遠ざかるにつれ、まるで闇に吸い込まれるように静かになっていった。
「パパ、お化けは何処にいるの?」
何もない道のりに飽きてきたのか、娘が振り返る。
「お化けは、何処にでもいるよ。音葉がいるって信じれば、出てきてくれるはずだよ」
たとえば、と、蔓草の絡まる低木の幹を指差した。月明かりが作り出した影は、見ようによっては、鼻の曲がった魔女の横顔に見える。
「魔女だ! 魔女がいる!」
怖がっているのか、喜んでいるのか、甲高い悲鳴を上げて走り回る。僕の言葉を信じた娘は、しきりに湿地の影を指差して、何かいる、と言った。
池の入り口を示す、木の看板が見えてきた。あの夜と同じように、フクロウの声が四方から聞こえている。
「笛の音がするよ? パパ、誰かいるみたい」
娘の言葉に、僕は首を傾げた。笛の音など、聞こえなかったから。池のほうへと駆け出した娘を追いかけて、ふと足を止める。僕はここで待っているべきなのだと思ったからだ。
ざわざわと、梢が騒ぐ。流れる雲が時折月を隠して、辺りの影が動く。不思議と、一人で行ってしまった娘のことは、心配ではなかった。
どれくらい経ったか、やがて小さな人影が池の入り口から戻ってくるのが見え、僕は手を振った。娘ははしゃいだ声を上げながら、駆け寄ってくる。
「ねえ、人がいたよ? ルナっていうの。ママより美人だったよ!」
「そうか、」
「もう、ずーっと昔から、ここに住んでるって言ってた」
僕は笑顔で相槌を打ちながら、空を見上げた。流れていた雲は晴れ、蒼くも見える月が照らしている。
「またおいで、って。ねえ、明日も来てもいい?」
「いいよ。明日、また来よう。何か、お土産を持って、」
嬉しそうに頷く娘を連れて、民宿へと戻る。娘はしきりに振り返り、笛の音がする、と言った。