最後の日
気がつくと、騒がしい大部屋の布団の上だった。既に夜が明け、友人たちは朝食のために食堂へ向かおうと、身支度を始めている。
「何だよ、今日は柄が違うじゃないか」
賭けてたのに、と何の落ち度もない友人を責める声が聞こえ、笑い声が上がった。さすがに、色違いで三枚も同じTシャツを買う人間は少ないだろう。僕も納得し、急いで準備を始めた。
食堂の入り口には予告通り、引率の教師が待ち構えていた。あらかじめレポートを書いてきた生徒たちは、余裕の顔でそれを手渡し、中へと入っていく。あとでお咎めはあったとしても、皆、朝食にはありつけそうだった。
「若葉くん、菜っちゃんに電話した?」
食事中、桃子が話しかけてきた。
「してないよ。なんで?」
「してあげたらいいのに。きっと心配してるよ」
何を、と聞きかけて、思いとどまる。浮気をしていないかどうかの心配だ。信用されていないという不本意さを感じるとともに、それだけ好かれているのだという嬉しさも浮かんで、悪い気はしなかった。
林間学校の最終日でもある今日、僕たちはまた教師の引率のもと、自然の中を引っ張り回されていた。炎天下の暑さは、都心と比べればまだ楽なのだろうが、標高が高いぶん太陽に近いから余計に焼ける、ともっともらしいことを述べる友人。実際、太陽は本当に近いようも見え、その眩しさは目眩がするほどだった。
それでも木陰に入ると、風が通って清々しい。エアコンよりよっぽどいいだろう、と教師に言われたが、エアコンのほうが良い、といつものように口答えする生徒はいなかった。それほど風は澄んでいたし、エアコンの風などにはない、森の香りがする。
「何考えてんだよ? 珍しい」
友人に指摘されて、僕は我に返った。
「あんまり涼しいから」
全く、的を射ない返事しかできなかった。何処か遠くへ行っていた心を、咄嗟に取り戻せなかったからだ。
「夕べ、おまえが部屋を出てくとこ見たってヤツがいるんだけど、まさかホントに浮気か?」
女子の部屋に行っただろう、とからかうように言う。僕はようやく笑って、それを否定した。
「馬鹿なこと言うなよ。女子に聞いてみりゃ、解るだろ?」
浮気だったら、面白かったのに。友人はつまらなさそうに言って、乾いた地面にできた木陰に寝転がった。僕も同じように、寝転がってみる。吹き抜ける風は少々強いが心地良く、遥か高いところから降り注ぐ木漏れ日が綺麗だ。ただ、男友達とそんな感動を分かち合う気にはなれず、そのまま目を閉じる。
遠くへ行っていた心が運んできたものは、夕べの記憶だった。
夕方、まだ明るいうちに民宿に戻り、束の間の自由時間を与えられた。僕は小銭を幾つか持って公衆電話を探すと、間違えないように注意しながら、かけ慣れた番号を入力する。ここは携帯電話が圏外で、通信手段はこれしかないことは、先に林間学校を終えた他のクラスの連中に聞いて知っていた。
「あ、菜採?」
繋がると、菜採は安堵したような声で答えた。公衆電話からだったから、と呼び出しが長かった理由を述べる。僕は、そうだと思った、と答え、会っていない数日間のことを互いに話したあと、硬貨を継ぎ足した。あれほど心配していた浮気という言葉を、菜採は一度も口にしない。いや、尋ねようか、迷っているのだろうか。電話越しにできた少しの間に、そんなことを思う。
「今から言うこと、黙って聞いてて」
僕はそう前置きした。
「細い一本道の遊歩道を、ずっと歩いた先に、綺麗な池があるんだ。神様が住んでるって言われる、すごく神秘的な池だよ。そこに、長い黒髪の少年がいるんだ。まっすぐな髪をポニーテールみたいに縛ってて、色白で、深い青にも紫にも見える、不思議な色の目をしてる。彼は、名前がないって言うんだ。だから、今まで名乗ったことがないって」
そこまで一気に話して、ようやく落ち着いた。菜採は言われた通り、電話の向こうで黙っている。
「その子の名前をつけてあげようと思って、朝からずっと考えてて、さっき、思い付いたんだ」
僕は、その名前を菜採に告げられなかった。硬貨が足りなくて、強制的に切れてしまったのだ。時間とは意外に高いものだと思いながら、しばらく電話の前に立ち尽くしていたが、気を取り直して最後の夕飯のために既に騒がしい食堂へと向かった。
教師が、明日の帰路の説明をしている。朝食のあとすぐにチェックアウトするから、荷物を夜の間にまとめておくように、と言いながら、原稿用紙を配り始めた。予告は聞いたはずだったが、またかよ、と不満の声があちこちから上がる。
「今朝集めたレポートは酷かったぞ。特に男子。誰が食事の献立をレポートしろと言った?」
そんな生徒が数人いたらしい。心当たりのある連中が、含み笑いをしている。
「今度、献立を書いたヤツは、戻ってから便所掃除をさせるから、そのつもりで書けよ」
ネタがないよ、とぼやきながら、運ばれてきた山菜御飯に目を輝かせる。レポートにしたくなるほど美味しかった。
その夜、何とか真面目にレポートを書き終え、帰り支度も整えた生徒たちは、大半が深夜を過ぎても眠らず、他愛のない話を続けていた。明日、長い長いバスの旅が待っていることを知っているからだ。睡眠は、その時間に取れば良い。時折、大きな笑い声をたてては、慌てて口をつぐむ。そんなことを繰り返しているうちに、フクロウの声を聞きながら、誰からともなく眠りについていった。
自然と目が開いたのは、初日の朝と同じく、キジバトの歌声が響く早朝だった。波のように押し寄せるヒグラシの声は、いつも胸を高鳴らせる。それが導く出会いは、不思議で美しく、希有なものだと信じているから。
僕は身支度を整え、そっと民宿を抜け出した。手には鉛筆と、小さなスケッチブックを持って。向かう先は、神が住むといわれる、美しい池。
既に慣れた道のりを三分の二ほど歩いてきたとき、あの笛の音が聞こえた。すると、すぐ近くの湿地から小鳥が飛び立つ音がして、池のあるほうへと向かっていく。また一羽、また一羽と、羽音だけが遠ざかって行った。僕は、幾重にもかかったベールのような朝靄をかきわけ、その鳥たちを追った。
まだ、動くものの存在しない中に、僕の姿はやけに異質に感じられる。微動だにしない水面にそんな自分を映しながら池の形に沿って歩いていくうちに、笛の音はパッタリとやんで、キジバトの声だけが聞こえた。
今は夜と朝の狭間。早くしないと、もう会えなくなる。焦るあまり名前を呼ぼうとして、まだ相手にその名を伝えていないことを思い出した僕は、苦笑しながら奥へと続く池の畔を早足で歩いた。
靄の向こうで、バサバサッ、と鳥の羽ばたく音がして、それらは一気に空へと舞い上がった。そして僕は、それを見上げる黒髪の少年の姿を見つけた。
「……早かったね。鳥たちが驚いて、帰って行ってしまった」
少しだけ寂し気なその表情に、何だか申し訳ないことをしたような気分になる。しかし、彼はすぐに笑顔を見せた。
「毎朝、ここへ来て水浴びをするんだよ。もうすぐ子が生まれるからと、名前をせがまれた」
まるで相手に言葉が話せるかのように言う。僕は可笑しくなって、
「自分に名前がないのに?」
「それは、若葉がくれることになっているよ」
名前を覚えていてくれたことが、言いようもなく嬉しかった。これが夢の続きでないと確信できた気がしたから。
「ねえ、何か笛を吹いてよ。……こないだみたいに、びしょ濡れにならないやつ、」
僕がそう頼むと、彼は笑いながら袂の横笛を取り出して構えた。僕はスケッチブックを広げて、鉛筆を取り出す。昨日どうしても表現できなかった黒髪を、写生しようと思ったのだ。しかし、美しすぎる少年を前にして、少しも手は動かなかった。代わりに、「瑠奈」と書いて、彼の笛の音に目を閉じる。雲が晴れて、明るい光が射すようなメロディだった。木立の隙間を、眩しい朝日が埋める。眠っていた生き物たちが、動き出す。……朝を、呼んでいるのだ。
「帰りの道が、安全であるように」
またおいで、とは言わなかった。きっとこれが最後だと知っているから。寂しさが夕立のように押し寄せる中、彼に呼び寄せられた朝日が池の水面を照らし、魚がパチャン、と跳ねた。僕はスケッチブックに書いた名前を、彼に見せる。
「ルナって読むんだ。遠い国の言葉で、月っていう意味があるんだよ」
僕の言葉に、彼は驚いたような顔をした。何か言いたげに見える口元を見つめるうちに、辺りはどんどん、色を取り戻していく。
「それと、この字には瑠璃色の意味もあるんだ。……君の目の色、」
彼は嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、若葉はおかしな子だ」
「……どうして?」
その問いには、答えてくれなかった。
「良い名を、ありがとう。気をつけてお帰り」
宝石のような瞳を持ち、朝の光のようにけがれなく、月の光のように神秘的な雰囲気を纏う。そういう存在を、人々は神と呼ぶのだろう。皆が眠って静まり返った観光バスに揺られながら、僕は窓の外を眺める。彼が住む森が、どんどん遠ざかって行く。また来るよ、と、言えなかったこと。その後悔が、最後に聞いた笛の音とともに、いつまでも胸に残った。