自由時間
民宿に戻り、観光客の合間を埋めるように食堂の椅子に散らばった僕たちは、ようやくいつもの賑やかさを取り戻していた。昼食は、意外にもサンドイッチや揚げ物など、洋風のメニューだ。二日連続同じ柄で色違いのTシャツを着ている友人が、明日は何色を着てくるかという、どうでも良い話題が聞こえる。普段、制服姿しか見たことのない友人も多くて、普段着でいることに違和感を覚えるのは確かだが。
昼食が終わると、夕飯の時間までに戻ってくることを条件に、僕たちは思いがけず自由時間を得た。予定表も何も渡されていないこの林間学校は、教師の気分次第で予定が決まるらしい。
大半が昼寝をする、と言い出し、僕も大部屋へと戻った。本当に押し入れから枕を引きずり出して、思い思いの場所で昼寝を始めた友人たちを横目に、僕はバッグから小さなスケッチブックを取り出し、生い茂る木々で日陰になった窓辺でそれを広げる。美術部員でも画家志望でもなんでもなかったが、普段から気になるものを見つけると、ここに描くことにしていた。僕にとっては気まぐれにつける日記帳のようなものだ。
あっという間に静かになった大部屋は、描く環境としては最適だった。生い茂るブナの影と窓から入るそよ風が心地良い空間を生み、蝉の声も涼し気に聞こえる。
いつも使うのは、八種類の硬さの鉛筆だけ。線の細い対象は硬い芯で、柔らかい芯は、影の濃いものや大雑把な部分を描くのに使う。
僕は迷わずに、人の形を描いた。忘れぬうちに描き留めたいという思いに、今までにない速さで筆を動かす。白かった背景に浮かび上がってくるのは、横笛を吹く、人の姿。美しい瞳はあえて伏せておく。驚くほど、細部まで覚えていた。描き進めるうちに、あの魅惑的な笛の音色までもが甦ってくる。
出来上がってからも、僕はずっと、束ねた黒髪を描いていた。何度も何度も鉛筆を滑らせ、風にさらさらと音を立てそうなほどくせのない髪をなぞる。しかし、どれだけ描いても、記憶の中の美しさには届かなかった。
スケッチブックを閉じた僕は、まだ眠りこけている友人たちを置いて、一人ロビーへと降りた。女子たちが売店で楽しそうに、家族への土産の品定めをしている。あるいは、学校の違う友人へのものだろうか。僕もそれに混じって、再び売店に入った。
「あの、すみません」
僕は、できるだけ手の空いていそうな店員を見つけ、できるだけ、丁寧に話しかけた。主婦だろうか。四十代前後の、ややふくよかな女性だった。
「このあたりで、近々、祭りがあるんですか?」
「ああ、お船祭りのことですね」
僕の質問に、さほど驚いたような素振りも見せず、彼女は答えた。その祭りは十月に、あの池で行われるという。平安装束に身を包んだ人々が舟に乗り、雅楽の流れる中、池を周回するのだそうだ。その雅な雰囲気は平安時代そのものだと評判らしい。……あれはその衣装だったのだ。僕は思いのほかガッカリしている自分に戸惑いながら、詳しい説明に礼を言って、大部屋に戻った。
寝すぎて眠い、と勝手なことを言う友人たちと連れ立って、食堂へ向かう。今度は教師がまとめて席を取っていたようで、端から出席番号順に座らされた。観光客から、うるさいと苦情があったことが想像できる。山菜や川魚の甘露煮など、メニューは夕べとさほど変わらなかったが、空腹のせいか、満足できる美味しさだった。
「部屋に戻ったら、今から配る原稿用紙に、今日のレポートを書くんだぞ。たった三枚だから、楽勝だろう」
教師はそう言って、原稿用紙を配り始めた。途端に、不満の声が上がる。
「言っとくけど、明日もだからな。期限は翌日の朝食前。食堂の入り口で集めるから、持ってこなかったら、朝食抜きだぞ」
解ってると思うけど、と付け足す。さっき見た夢の内容でもいいのかな、と誰かが小声で言うのが聞こえた。
食事を終えて大部屋に戻った僕は、皆と同じように畳の上に伏せて、原稿用紙に向かった。まさか成績を左右することもないだろう、と大半の意見が一致し、朝食を取り上げられない程度の内容を目指して書き始める。僕は考えあぐねた末、売店で聞いた祭りのことについて、できるだけ多くの言葉で綴った。黒髪の少年のことは、書かなかった。
隣の部屋の教師が、やかましい、と三度目の注意にきて、大部屋はようやく静かになった。と言っても、小声で話は続いている。僕は風呂を済ませたあと、再び一人で外に出た。
暗くなっても、散策を楽しむ家族連れがいる。懐中電灯片手に、夜の虫を探して遊歩道を歩いているのだろうか。あちこちで、小さな光がうごめいた。一所でジッと留まるものもあれば、素早く動いて尾を描くものもある。それが何故か人工のものでないような気がしてきたとき、僕は足を止めた。ただでさえ鬱蒼とした湿地に夜の帳が降り、そこには何か得体の知れないものの気配がある。おまけに雲が出ていて、月の姿は見えなかった。ただの想像でしかないが、心に思った時点で、暗闇には何かが存在するのだ。かかわりたくなければ、近づかないほうが良い。そうわかっていても、引き寄せられる。
「すみません、」
突然暗闇から声をかけられた。心臓が、必要以上に大きな音をたてた。
「ライトが壊れてしまって。もしよろしければ、民宿まで、連れて行ってもらえませんか」
これから出掛けるところだとは言えず、僕はその若い女性を伴って、民宿に戻った。こんな夜に、女性が一人で散策などするだろうか。当然の疑問は敢えて投げかけなかった。女性は大袈裟に頭を下げ、薄暗い廊下の先へと消えていく。その後ろ姿が見えなくなると、何かの暗示が解けたかのように、明るい蛍光灯の光にホッと息を吐いた。再び出掛ける気にはなれず、僕は懐中電灯をフロントに返した。