昼間の池は
「おい、どこ行ってたんだよ? こんな朝早くから。それに、ずぶ濡れじゃないか」
ようやく半数ほどが起き出した大部屋に戻るなり、友人から声をかけられた。僕は生返事をして、差し出された民宿の名前の入ったタオルで顔や頭を拭く。
「寝惚けて川にでも、飛び込んだのか?」
僕の姿に、友人たちはそんなことを言った。民宿の前には川が流れていて、そこにかかる一風変わった橋は観光名所にもなっている。飛び込める深さはないだろう、と笑う者もいた。ずっと雨が降らないようで、見たところ、せいぜい膝くらいの深さだと想像できるが、意外に深いのかも知れない。友人たちがそんな会話を始めて、僕は追求を逃れた。
不思議なことに、あの大雨は池の周囲一キロ四方くらいだけのもので、木の遊歩道を走っているうちに、ぱたりと止んだ。池での出来事は夢だったのかとさえ思えたし、友人たちに話しても相手にしてもらえなかったが、雫が滴るほど濡れた体が、何よりの証拠。僕は何だか乾かしてしまうのが勿体ないような、おかしな気分だった。
別室の女子も加えたクラス全員で朝食を終え、いよいよ林間学校の本番が始まった。が、生徒たちはロビーから繋がる売店で足を止め、いきなり出足を挫く。引率の教師も、いつものように煩いことは口にせず、同じように商品を手に取って眺めた。僕はそれをいいことに、幾つもの店舗が連なって横に長く伸びた売店を注意深く見て歩き、あの少年が吹いていた笛を探した。
笛と名の付く商品は、いくつもある。動物を象ったオカリナや、1オクターブも出ない小さな土笛、ペイントされた木の縦笛。しかし、彼が持っていたような横笛は、何処にもなかった。黒と朱の漆で塗られた、小さな横笛。どうやらそれは、特別なもののようだ。
生徒たちが売店の見物に満足すると、今度こそ、外に出た。完全に陽が昇って、避暑地と言えども、充分に暑い。窮屈な制服でないだけまだマシなのだろうが、生徒たちは口々に、暑い、休憩、と二つの単語を繰り返した。
「苔で滑るから、気をつけて歩けよ」
木の遊歩道を歩き始めると、教師が注意した。じめじめとした湿地帯の一部と化した足場の木材は、濃い緑の苔に浸食され、その割れ目から平らなキノコが顔を出している。低木や草の類いが作る影は、せいぜい小動物が一休みできるほどのものでしかなく、人間は炎天下にさらされた。なおかつ多湿で蒸し暑く、授業中と変わらないほど集中力を欠く。都会では見られない植物や鳥を見つけては解説をする教師の言葉を、いい加減に聞きながら歩いていると、
「今から、さっき言ってた池に行くらしいぜ」
同じようにぶらぶらと集団のあとをついていた一人が、僕に声をかけた。
「パワースポットらしいよ。年寄りが行くと、元気になるとか」
俺たちには関係ないご利益だけど、とつまらなさそうだ。しかし、
「おまえが会ったって言うヤツ、俺は女だと思うな。きっと、祭りかなんかの練習してたんだよ。それなら納得いくだろ」
確かにそうだ。長い黒髪も、白い肌も、あの澄んだ声も。どうしてそれに気付かなかったのかと不思議に思ったが、あの時は余計な雑念はおろか、通常の思考回路さえも、まともに働かなかった。それが何故なのかを考えようとしても、木々のざわめきや川のせせらぎ、そんな姿の見えないものに邪魔されて、何一つ解らなかった。
早朝に歩いた時は数メートル先までしか視野がなかったが、靄が晴れて広がった視界は、想像以上に広大だった。地面を隙間なく覆い尽くす無数の草木が、朝露に濡れてキラキラと輝いている。姿は見えないが、聞こえる鳥のさえずり。所々にできた水たまりを住処とする、小さな蛙。それらは当たり前にこの湿地で生まれ、生活し、やがては死んでゆくのだ。この場所に残された自然を守らなければならない、と叫ばれる意味が解った気がした。
林間学校は毎年、夏休みの恒例で、二年生が半強制的に参加させられる。部活の大会があるとか、法事、結婚式の類いの理由以外は、避けられない。ここには小さな民宿しかないため、二クラスずつ期間をずらして、三泊四日の旅だ。
『くれぐれも、浮気しないでね』
クラスの違う菜採に、出発の前夜、そう言われた。浮気、という単語はまだ僕の中で何の感情も生まないものだったのに、彼女が口にしたせいで、ほんの少しだけ色がついてしまった。浮気をしたいとは思わなかったが、その罪を犯すことで味わえるであろう罪悪感に、興味がわいたのだ。
「菜っちゃんにね、監視するように頼まれたんだ」
大袈裟なこと言うのは、菜採の親友の桃子だ。菜採と同じバドミントン部で、名前の如く桃色の頬と唇が可愛らしいが、高校生にしては、幾らか幼く見える。
「でも、菜っちゃんの気持ちも解るな。だって若葉くん、カッコイイもん」
真顔で言われて、こっちが恥ずかしくなった。変なこと言うなよ、と僕はわざと歩調を上げて、男友達の集団に紛れた。
やがて目的地の池に着くと、早朝の神秘的な雰囲気が嘘のように、明るく開けた空間だった。確かに木々に囲まれてはいるが、奥の見えない森というよりは、木立といった感じだ。水面まで覆っていた靄もすっかり消えて、小さなボートを浮かべた船着き場が見える。その近くに、つがいのオシドリが浮かんでいた。
解散、と言われても、することがない。生徒たちは再び、腹減った、飯、と口々に言う。飯は民宿に帰ってからだ、と言い返す教師の言葉は最初から予測できていたはずなのに、不満そうだ。
「若葉、黒髪の女を捜そうぜ」
僕の話を聞いた時は馬鹿にしたような口振りだったくせに、皆、その人物に興味があるのは明らかだった。その理由は一つ、見たこともないような美しさだったという僕の感想。
「女と決まったわけじゃないだろ」
「女だよ。若葉はからかわれたんだよ」
もしそうだとすると少々腹立たしい気もして、友人たちの誘いにのりかけた。しかし、桃子の目が怖い。
「若葉くんは行かないよね? 彼女いるんだもん」
当然のように言う。僕も、渋々頷いた。友人たちは僕を一応気の毒そうに一瞥すると、さっさと池を囲む木々の影に紛れて姿を消した。遠くへ行くなよ、という教師の声が聞こえていたかどうかは、疑問だ。
「桃子はカレシ、作らないの?」
取り残された僕はあきらめて、桃子と会話をすることにした。
「好きな子、いないんだもん。大学に行ったら、できるのかな」
全く、幼い。まるで妹のように感じながら、早朝に出会った「彼」を思い浮かべる。年齢も、性別も、実在したのかどうかさえ定かでないことが、あるのだろうか。容姿や声はあどけなく、かなり年下に思えた。しかし、その口調や物腰は洗練されていて、遥かな精神的隔たりを感じた。
幾らか時間が経ち、教師が気を揉み始めた頃、ゾロゾロと友人たちが木々の隙間を縫って歩いてくるのが見えた。あまりに勝手な行動をとると、食事抜きの刑が待っていることを知っているのだ。僕の顔を見るなり、
「裏道を下ったところにある売店で聞いたら、そんな女はいないって。もちろん、男も」
僕はそのセリフに頷きながら、さほどガッカリもしなかった。そんな答えを持って帰ってくるであろうことが、薄々、解っていたからだ。
帰り道、さすがに空腹と暑さで口数の減った一団は、ただ黙々と足を動かすだけになった。行きにはあちこちから聞こえた蛙や鳥の声が、暑さを増長する蝉の声に変わっている。ようやく半分ほどの距離を戻ったとき、民宿のほうから来た家族連れと、すれ違った。何のメロディでもない、オカリナの音が聞こえていたが、
「ねえ、神様って、ホントにいるの?」
小さな子供が尋ねた。
「今も空から見てるよ」
母親がそう答える声が、後ろで聞こえた。今までは気にも留めずに聞き流したであろうその会話が、いつまでも耳に残った。