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神の住む池  作者: kanon
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林間学校

 早朝のひんやりとした風を頬に感じて、僕は目を覚ました。何処からともなく聞こえる、ヒグラシとキジバトの声。それらは幻想的なハーモニーを奏で、まだ夢を見ているような気分にさせる。時が止まったような静けさの中、周りを見ると、クラスの誰一人起きている者はなくて、慣れない布団から起き出した僕は、音を立てないようにその大部屋をあとにした。

 こんな田舎の民宿に泊まるなんて。クラスの大半は、林間学校の本来の目的も知らずに、そう文句を言った。猫の額ほどではないが、充分とは言えない広さの校庭に、申し訳程度に植えられた桜と、地表をまだらに覆うシロツメクサが唯一の植物。そんな貧しい自然の中で生活する生徒たちを気の毒に思っての林間学校なのに、生徒側には伝わっていないようだ。

 ロビーから外に出ると、驚いたことに、もう売店は準備を始めている。時間が止まっていたのは、都会から来た高校生たちの部屋だけだったようだ。避暑に訪れた早起きの観光客たちが、売店に並ぶ民芸品を珍し気に眺めていた。

 僕はその観光客たちを横目に、民宿のすぐそばから始まる遊歩道へと向かった。この辺りは湿地帯で足元が悪く、丸太などを組んで作った足場の上を歩くようになっている。人がようやくすれ違えるだけの幅の遊歩道は意外にがっしりとしていて、僅かにも振動しなかった。僕は何かに呼び寄せられるように、黙々と朝靄あさもやのかかる細い木の道を歩いていたが、笛の音が聞こえた気がして、足を止めた。目を凝らしてみても、白く霞む視界に人の姿らしきものは見つけられず、大方、民宿の売店で誰かが試しに商品を鳴らしていたのだろう、と勝手な想像で納得し、再び黙々と歩いていく。この先に神が住むという池があるのを、知っているのだ。


「まただ」

 今度は確かに、笛の音が聞こえた。一キロほど先に見える、ひときわ大きな木の群れの向こう側から聞こえたようだ。僕の記憶が間違っていなければ、池はその辺りのはず。植物のつるのように絡む朝靄を振り払うようにして、僕は小走りに走った。

 木々に囲まれているせいか、そこだけひんやりとして、ごく薄い、湿った絹が素肌にまとわりつくような感覚。木々に囲まれた池の神秘的な空気に圧倒されていると、今まさに朝日がうっすらと射して、静まり返った水面を照らす。パチャン、と水音を立てて小魚が跳ねた。すると、それを合図にしたかのように、辺りは急激に生き物の気配を取り戻し始めた。

 草を踏む微かな音がしてその方を見ると、ようやく顔が解るほどの距離を隔てて、一人の少年が佇んでいた。長い黒髪を頭の高い位置でまとめ、組紐の飾りのついた、白く薄い着物のようなものを纏っている。膝丈の短い袴から、彼がまだ青年ではなく少年であることが知れた。遠目にも解るほどの白い肌と、凛として迷いのない美貌。……どうして少年だと解ったのだろう。目に見えるのは美しい少女の要素ばかりで、少年の要素など何処にも見当たらないのに。

 少年は、僕の存在を認めて、近づいてきた。近づくほどに、鮮明になる美しさ。美しすぎて目を背けたくなった経験は、これが初めてだった。

「おはよう」

 まだ声変わりのしていないような、幼い声で彼は言った。条件反射で、おはよう、と答える。

「怖がらなくてもいいよ」

 そんな意外なことを言われて、僕はただ、彼の澄んだ瞳を見つめた。漆黒の中に、サファイアのような青とアメジストの紫がきらめく。

「怖がってなんか、ないよ」

 僕はやっとのことで、そう言い返した。

「そうかな。怖がっているように、僕には見えるけど」

 根拠は、あるのだろう。恐怖というより、美しさに対する敬意のようなものが心を占めている。

「どうしてここへ?」

 こんな時間に、こんな場所にいる。それはお互いさまなのに、彼が先に、その質問を投げかけた。

「……笛の音が聞こえて。ここから聞こえたような気がしたから」

 まるで、自分の意志とは関係なく、そう口にしていた。心から、言葉を盗まれたような感覚だった。僕が呆然としていると、彼は初めて、笑みを浮かべた。

「笛というのは、これのこと?」

 彼は袂から、黒くて細い筒状のものを取り出し、それを横笛のように構えた。静かに目を閉じ、息を吸うと、まるで音に命を込めるかのように丁寧に、奏で始める。その艶やかな音色は、僕の胸の奥深くまで染み込んで肢体を巡り、足の裏から地面に根を張るように突きぬけた。幼い頃、家族で避暑にきた時のこと。浅い川で泳いだり、魚を追ったりする当時の景色が、そのまま目の前に現れた。その記憶という川の流れは速くて、ゆったりとした夏の一日を、走馬灯のように見せる。そうだ、あの日、川で遊んでいたら、急に雨が降ってきて、ずぶ濡れで民宿に戻ったんだった。どうせ濡れたんだから、急ぐことはない。呑気な父親の言葉まで、甦った。


「また、おいで」

 演奏が終わると、彼は優しい表情で、そう言った。押し寄せてきた記憶の川はそのまま流れてゆき、やがて見えなくなってゆく。ただ呆然としてそれを見送っていたが、突然木々の葉を叩く音がして我に返った。何の前触れもなく大粒の雨が降り出したのだ。池の水面からも、飛沫が跳ね上がる。

「ここに雨宿りをする場所はないよ。気をつけてお帰り」

 雨を呼んだのは、彼自身なのだろう。叩き付けるような雨に構うことなく、ゆっくりと歩いて、森の奥へと姿を消した。僕はその後ろ姿を、夏の生温い雨の下で、ずっと見つめていた。


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