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「そんな顔してると、かおりちゃんが不安になるよ。子供は大人の感情に敏感だからね」
ふと視線を下ろす
かおりちゃんが心配そうにアタシを見上げていた
「おばちゃん、大丈夫ぅ?」
そうだ、アタシはこの子のお母さんを見つけるって自分に誓ったんだ
ごめんねかおりちゃん
かおりちゃんが一番心細いんだよね
アタシは腰を落とし、かおりちゃんの目を見ながら微笑んでみせた
「大丈夫よ、ありがとう」
かおりちゃん、今度こそお母さんを見つけてあげるからね!
でも…
一体どうやって?
「アタシの仮説は間違っていたのかな」
立ち上がりながらそう呟くと、アイツは珍しく真面目な顔になって、
「僕には君の仮説が間違ってるとは思えないけどね」
「でも、結局お母さんは見つからなかったわ」
アイツは低く唸って腕組みをすると、視線を斜めに滑らせた
「ちょっと思ったんだけど…、かおりちゃんのお母さんが聴覚障害者だって言う前提はいいとしてさ、それでもお母さんなら、やっぱり子供がいなくなった事をここのサービスカウンターなり警察なりに届けるんじゃないのかな」
ーーえ!?
届ける…?
目が覚めた思いだった
そうか、そうよ確かに、母親の心理としてそれは自然な行動だわ
どうして気がつかなかったんだろう…
「アンタねぇ、どうしてそれを先に言わないのよ!」
「あ…いや…く、苦し…く、首しまって…」
アタシはアイツの首から手を離し、頭を巡らせた
かおりちゃんのお母さんが取るべき行動は分かった
しかし、現にそれは行われていない
ならば、それは何故なのか?
それを突き詰めていけば、おのずとお母さんの居場所が分かるに違いない
ふと見ると、アイツが何故かにやついている
「な、なによ…気持ち悪いわね」
「いや、いつもの君に戻ったなと思って」
「何言ってんの、アタシはアタシよ」
「うん、まあ、そうだけどね」
アイツの優しい笑顔がふいに脳裏に浮かび、意味もなく恥ずかしくなったアタシは、くるりと背中を向けた
そして、その拍子にアタシはある可能性に思い至ったのよね
もしかしてお母さんは、かおりちゃんがいなくなった事に気がついていないんじゃないかしら
だからこそ、届け出ていない…
そうよ、そうに違いないわ!
アタシは振り返ってアイツの目を見据えた
「行くわよ、かおりちゃんのお母さんがいる場所へ!」
言うや否や、アタシは駈けだしていた
一階のサービスカウンターに戻ったアタシは、息を切らせながら受け付けの女性に尋ねた
「すみません、このショッピングモールに、子供を預ける事の出来るお店はありませんか?」
まさにビンゴ
その女性によれば、一件だけ該当するお店があると言う
『アンダンテ』と言う名の美容室
そこでは別室に託児所が用意してあり、子供連れの女性客が良く利用しているのだそうだ
おそらく、かおりちゃんのお母さんはそこにいるはずだ
ようやくアイツが追いついてきた
アタシよりも苦しそうに息を切らせながら、背中におんぶしていたかおりちゃんを丁寧に下ろしている
「ちょ、ちょっと、もう少し、ゆっくり歩いてくれても…」
実際は走っていたけどね
そう言えばアタシ、100メートル11秒だっけ
「情けないわねぇアンタ。それより早く行くわよ。お母さんのいるお店が見つかったわ」
「ほ、本当に!? あ…でも、もう少し休ませて…」
『アンダンテ』は二階にあった
ガラス張りの店内は女性客でいっぱいだ
サービスを受けている女性が5人
ソファで雑誌を捲りながら順番を待っている女性がこれまた5人
凄い盛況ぶりである
アタシたちが美容室に入ろうとしたちょうどその時、サービスを終えたばかりの髪の長い女性がレジに向かってきた
一瞬、女性と目があった
その直後、何か稲妻のようなものが、アタシの頭を駈け巡っていった
もしかして、彼女が…
確信はなかった
しかし、アタシの勘がそう告げていた
彼女がかおりちゃんの…
そして、彼女の視線がアタシたちの足元へと落ちるーー
それとまったく同時だったかもしれない
かおりちゃんがその女性の元へと駈けだしたのは
たちまち女性の顔にひまわりのような笑顔があふれていく
かおりちゃんにも、アタシたちがまだ見たことのない、とびきりの笑顔がそこにあった
やっぱりそうだったんだ…
アタシはほっとしてアイツを見た
アイツもアタシを見た
お互いに自然と笑みがこぼれた
心から嬉しいと思った
本当に良かったね、かおりちゃん
かおりちゃんは、あらゆる不安から解放されたかのように、女性の足にしっかりとしがみついている
微笑ましい光景だった
もう何も言う事はない
全ては終わったんだ
それを裏付けるかのように、かおりちゃんはたった一言だけ、嬉しそうにこう叫んだのだった
お母さん!とーー
結局のところあの時は、託児所に預けられた子供の数があまりにも多かったため、かおりちゃんが部屋から出ていった事に職員が気がつかなかったらしい
かおりちゃんのお母さんが聴覚障害者であると言う事も、アタシの予想通りだった
実はあの一件の後、かおりちゃんのお母さんが我が家を訪れてくれた
わざわざお礼を言いに来てくれたのだ
手作りのシュークリームを手みやげに持って
会話はもちろん筆談だったけど、その文章からは彼女の優しさが満ちあふれていた
本当に素敵なお母さんだった
かおりちゃんがまだアタシの事をおばちゃんと呼ぶ事には閉口したけど、それもまた良い思い出となったと思う
そして、アタシは
アタシは今ーー
アタシは今、あの時の事を回想しながら、意味もなくスプーンをクルクル回していた
あまり流行らない喫茶店の片隅で、アイツーーいや、コイツを目の前にして
どうしてあの時の事を思い出したんだろう
そう考える度に、アタシのスプーンはコーヒーを撹拌し、黒い水面に小さな渦巻きを作り出した
なんだか自分の意識が、どこか知らない場所を漂っているような気がする
そんな風に頭の中身が空白でおおわれていた時だった
コイツがとんでもない言葉を口にしたのは
「ーー出来たんだーー」
最初、アタシはコイツが何を言っているのか良く分からなくて、「はあ?」と間抜けな声をあげてしまった
「何、何が出来たって言うのよ。赤ちゃんでも出来ちゃったわけじゃないでしょうね男なのに」
アタシが薄ら笑いをして見せると、コイツは軽くため息をついて、
「なんだよ、さっきから上の空だと思っていたら、やっぱり聞いていなかったんだね」
「失礼ね、ちゃぁんと聞いてたわよ。出来たんでしょ、逆上がりとか分数のわり算とか」
「僕は小学生か」
「頭の中身はね」
「あのねぇ」
はいはい分かったわよ、とアタシはスプーンを左右に揺らし、わずかに体をのりだした
「それで、何が出来たのよ」
「だからさぁ、彼女だよ。彼女が出来たんだ」
「ーーえ?」
思わぬ告白に、アタシの手からスプーンが音を立てて落ちた




