二章二十話 風前の灯
「────」
ココアは言葉を切ったまま、肩を落とさずに立ち続ける。呼吸を整えるでもなく、拳を緩めるでもない。ただ、次に来るはずの反論を待った。
だが、アランは応えない。
視線を伏せ、剥がれ落ちた外殻を拾い上げる。指の動きは不器用で、何度も取り落としながら、それでも必死に顔へ押し当てていた。合わない形状を無理やり嵌め込もうとするたび、内部の部品が擦れ、乾いた音が漏れる。
その動作は、先ほどまでの余裕や軽薄さとはかけ離れている。攻撃の構えも、間合いを測る視線もない。ただ、壊れた箇所を隠そうとするような、焦燥だけが露骨だった。
ココアは一歩、半歩と距離を詰める。足元の破片を踏まぬよう、わずかに軌道を変えながら。
今までの印象とは正反対に、その姿は、哀れとしか形容できない。
ココアは眉を寄せ、首を僅かに傾げる。理解できないものを見る時の、無意識の仕草だった。
「──同情を誘おうとしている? いや、違いますね」
静かな声音だった。だが、その言葉は空気を切り裂くように、はっきりと響く。
もしそれが目的だったのなら、結果としては成功している。ココアの内側に、ほんの僅かだが感情の綻びが生じていた。
だが、それだけだ。
脳裏をよぎるのは、カオルに向けられた数々の所業。視界の端で、守られるべき存在が無事でいるという現実が、判断を揺るがせることはない。赦しという選択肢が浮かぶ余地は、最初から存在しなかった。
「────」
ココアは一度、ゆっくりと瞳を伏せる。戦場の喧騒から切り離されるように、意識が内側へ沈み込む。
脳内に描くのは、明確な像。
全身を包んでいた雷が、制御され、導かれ、手のひらへと集束していく。奔流は形を失わず、絡み合い、連なり、やがて鎖のような構造を成す。逃げ場を与えず、触れたものすべてへ伝播するための、殺傷のイメージ。
伏せていた瞳が、再び開かれる。その瞬間、手のひらに迸る光が、はっきりと形を持った。
「──連鎖せよ、《チェイン・ヴォルト》」
詠唱とともに、鎖の形へと変貌した雷が、唸りを上げてアランの身体へと絡みつく。逃げ場を塞ぐように、幾重にも巻き付き、無機質な外殻を強く締め上げた。
機械であるがゆえか、苦痛を訴える声は上がらない。金属が軋む微かな音と、雷が伝導する低い振動だけが、その場に残る。だが、その挙動には明らかな乱れがあった。肉体は拘束され、思考は追いつかず、内部で奔流する何か――感情と呼ぶほかないものに、処理が間に合っていないように見える。
「──《マインド・スレッド》」
その隙を縫うように、アウルの静かな声が空間に落ちた。張り詰めた空気を裂くことなく、しかし確実に届く声音。魔力の流れが、はっきりと変質するのを、ココアは肌で感じ取る。
「アウルさん……」
「ありがとう、ココアちゃん。やっと隙ができた」
「はい、ですが油断は禁物です。きっと、まだ、なにか……」
ココアは一瞬たりとも気を抜かず、雷の鎖を維持したままアランを睨み据えた。拘束された相手のわずかな挙動、視線の揺れ、外殻の軋み――そのすべてを逃さぬよう、重心を低く保ち、足先に力を込める。
すると、静かな声が割って入った。
「──君の目的は?」
唐突な問いに、ココアは思わず顔を向ける。
「えっ、アウルさん!?」
アウルは視線を外さず、淡々と状況を告げた。
「僕の魔法がかかってる。敵意は削がれてるはずだよ」
「あっ、そうでしたね……」
言われてようやく思い出したように、ココアは小さく息を吐く。だが、拘束を解くことはない。手のひらに集中させた雷の力はそのままに、彼女は一歩だけ位置をずらした。
アウルとアランの間に、わずかながら空間を作る。同時に、いつでも再び間合いを詰められる角度を保ち、足の向きと肩の線を調整する。
「──少女、助かった」
険しい表情を崩さないままのココアの背後から、低く落ち着いたアダムの声が届く。彼女は振り返らず、ただ視線だけを後方へ滑らせた。
「アダムさん……」
拘束を維持したまま、体の軸は前に向けたまま。いつでも再開できる距離と姿勢を保ちつつ、ココアは次の言葉を待つ。
「すまない。本当なら、私がやらなければならないことだった」
その声音は静かだが、どこか重みを帯びていた。ココアはわずかに肩の力を抜き、声色を一段だけ和らげる。
「──ご主人様を守って頂きましたから、そこについてわたしに不満はないですよ」
口元に浮かんだ微笑みは控えめで、戦闘態勢を解くほどのものではない。雷の鎖は依然としてアランを縛り、微かな放電音が空気を震わせている。
実際のところ、もしもアランが機械であると事前に分かっていれば、戦いの組み立ては違っていたはずだ。決着に至るまでの手順も、もっと短くできた可能性はある。
だが、今さらそれを口にしたところで、状況が変わるわけではない。ココアは視線を前に戻し、拘束されたアランから目を離さない。
アダムが語らなかった理由。それが単なる失念ではないことだけは、行動の端々から伝わっていた。
「──秘密は、お互い様ですからね」
ココアがそう呟いた、その直後だった。空気の張り詰めた静寂を縫うように、アウルが拘束されたままのアランへと声を向ける。
「──君は、何がしたいんだい?」
「────」
問いかけに対する返答はない。アランは微動だにせず、開かれた外殻の奥から、規則的とも不規則ともつかない機械音だけが低く漏れている。それは呼吸音に似ているが、決定的に違う、無機質な響きだった。
「──アウル」
短く名を呼び、アダムが一歩踏み出す。その視線はアランの内部構造へと向けられ、状況を冷静に測っている。
「アダム、彼は起動を辞めたのか?」
「──いや……そんなわけはない。それは、エネルギーを必要としない。意識を落としたのであれば、別だが……」
アウルの疑念を含んだ問いに、アダムは即座に首を横に振る。断言に近い否定だった。アランの沈黙は停止ではなく、別の状態──そう示唆するような口ぶりである。
沈黙を保つアランを前に、ココアは雷の拘束を解かぬまま、わずかに視線を動かす。警戒を崩さず、それでも選択肢を探るように、口を開いた。
「──アウルさん、なにか衝撃を与えて起こしましょうか?」
「いや、それは危ないんじゃないかな。やめた方がいいよ」
「──そうですね」
ココアは一切の隙を見せず、アランを真正面から見据え続けていた。雷の鎖は解かれていない。視線も逸らさない。いつ再起動しても対応できるよう、全身に警戒を張り巡らせている。
一方で、アウルは額に滲む汗を拭うこともせず、アランの前に立ち続けていた。沈黙が続く状況でも、歩み寄る姿勢だけは崩さない。
「君は、誰かを恨んでいるのかい?」
「────」
返答はない。機械音だけが、低く、一定の間隔で鳴り続ける。
「君が知っていることを教えて欲しい」
「────」
呼びかけても、アランは反応を示さない。わずかに前屈みだった姿勢すら変わらず、視線も定まらないまま固定されている。
やがて、沈黙はより重いものへと変わった。アランは完全に身動きを止め、外殻の隙間から聞こえていた音さえも、次第に弱まっていく。
「──これ以上やっても無意味なのではないでしょうか? やり方を変えて……」
静寂を裂くように、ココアが慎重な口調で告げる。雷の鎖を維持したまま、わずかに視線だけをアウルへ向けていた。
「そうだね……もう少し聞いて無駄だったらどこかに拘束しよう」
「少女、その魔法は体から切り離せるのか?」
「はい、可能です」
そんな会話が交わされる中、アウルは一歩、アランへと近づく。沈黙に沈みきった存在へ、最後にもう一度、問いを投げかけるために。
「──君は、誰なんだい?」
「──◾︎」
返ってきたのは、言葉とは呼び難い音だった。規則性も感情も感じ取れない、断片的な発声。
「──?」
アウルが思わず眉を顰める。それは、聞き取れなかったというよりも、理解の枠外にあるものだった。
「──アダム」
低く名を呼び、確認を求める。
「──そんな単語は、学習させていないが」
断言するようなアダムの返答が、その場に重く落ちた。アランが発した音は、既存の知識にも、想定にも属さないものだった。
「君は、今、どういう意図で話したのかな?」
問いかけは穏やかだったが、空気は張り詰めていた。アウルは油断なく視線を向けたまま、アランの反応を待つ。
「──▇▎▌」
返答は、再び意味を持たない音の羅列だった。機械が誤作動を起こした際のノイズにも似た、不規則で耳障りな響きが空間を震わせる。
「──アウルさん、離れた方がいいです! 嫌な予感がします!」
ココアが眉を強く顰め、声を張り上げる。雷の鎖を操る手に、無意識に力がこもった。その感覚は理屈ではなく、戦場で培われた直感に近いものだった。
と、
「──き、」
掠れた音が、確かに人の言葉として漏れ出る。今まで無反応だったアランの口が、ぎこちなく動いた。
内部で何かが噛み合い始めたような、不穏な間。機械音が一瞬、途切れる。
そして、
「起爆装置作動」
そう、感情の抑揚を一切含まないまま、言葉だけが置き去りにされるように告げられる。
直後、アランの口元から、低く乾いた機械音が漏れ出した。
「──っ!?」
異変を察知した瞬間、ココアの瞳が大きく見開かれる。考えるよりも早く、反射的に魔力を展開した。
床下からせり上がるように氷が生成され、空気中の水分が一気に凍結していく。透明な壁が形を成し、アランを閉じ込めようと四方から迫る。
が、
内部から走った不規則な振動が、氷の表面を震わせた。まるで内側から膨張する圧力が、壁そのものを押し広げようとしているかのように。
嫌な予感が、確信へと変わる。
氷が、悲鳴のような音を立てて軋んだ。
「──ココアちゃ、」
「離れて!」
鋭く叫ぶと同時に、ココアは身体を捻り、アウルとアダムを強引に背後へ押しやった。床を擦る音が短く響き、二人の距離が一気に引き離される。
氷の檻の向こう側で、異様な輝きが膨張していく。白とも青ともつかない、眩い光。それは光源というより、内側から溢れ出すエネルギーそのものだった。
「──イメージが足りないっ……!」
焦燥が、思考を侵食する。魔法を成立させるために必要な像を結ぶ余地が、頭の中から急速に削り取られていく。冷静さを欠いた瞬間、脳裏は真っ白になり、形を成すはずの想像は霧散した。
それはつまり、制御が追いつかないということ。
「──ぁ」
喉から零れた微かな声と同時に、氷の内側で光が限界まで膨れ上がった。
「まず」
最悪の想定が、走馬灯のように一気に押し寄せる。
アランが、カオルやココアに使ってきた、あの奇妙な術。それは、起爆の譲渡が原因だったのではないか。
もしそうなら、気づくべきだった。もっと早く、もっと慎重に。だが、それが真実だと確定したわけではない。
思考は即座に次の手を探る。氷で防ぎきれないなら、重ねればいい。一枚が砕けるなら、二枚。二枚が足りないなら、三枚、四枚と。
詠唱も整えず、明確なイメージすら持たないまま、ただ反射的に魔力を吐き出す。粗雑で、歪で、精度の低い氷。それを何重にも、壁のように、檻のように重ねていく。
せめて、衝撃を殺すために。ほんのわずかでも、ダメージを抑えるために。
けれど、
それでも足りないだろうな、と。戦況を見極めたわけでも、理屈で導き出したわけでもない。ただ、静観にも似た諦めが、ゆっくりと脳を支配していった。
氷を重ねる手は止まらない。だが、その奥で、結果だけは既に見えてしまっていた。
「────」
ココアは言葉を失ったまま、なおも手のひらを前へ突き出し続ける。吐き出される氷は、もはや形も整わず、ただ魔力の名残のように空間へ積み重なっていくだけだった。意味はないと、理解している。それでも、せめて一瞬でも、ほんのわずかでも威力を削げるなら――その一心で。
「ぐ、ぅ……っ!」
じり、と。氷越しに伝わる異様な熱が、皮膚を焼くように手のひらへ滲み込んでくる。冷気と熱が拮抗する感覚が、神経を直接擦り潰す。
もう、爆発まで数秒もない。
「──は、」
覚悟を決めようとした、その瞬間。ぐらりと、世界が大きく傾いた。
視界が流れ、床が迫る。脇腹に、何か暖かいものが強く押し当てられた感触が走り、そのまま体勢を崩される。
次の瞬間、ココアの身体は床に倒れ込み、鈍い衝撃が背中から全身へと広がった。
「──待って!」
確かに、そう呼ぶ声が聞こえた気がした。アウルの声だった気がするが、それとも都合よく作り出された幻聴だったのか、判別する余裕はない。
体を起こそうとした、その瞬間。
──轟音。
耳を叩き潰すような衝撃が空間を引き裂き、世界が一瞬で白く染まる。ココアが量産した氷は、爆心を包み込むように砕け散り、衝撃をわずかに殺した。だが、それは本当にわずかでしかなかった。
爆風が叩きつけられる。同時に、鋭利な氷の破片が弾丸のように飛び散り、肌を、衣服を、容赦なく打ち抜く。
鈍く、重い痛みが全身を走った。
視界は風に蹂躙され、瞼を開くことすらできない。反射的に身を縮め、姿勢を低く保つ。少しでも、被弾を減らすために。
爆風が渦を巻き、空気が唸りを上げる中で、ココアはただ歯を食いしばり、その嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
「──か、ふ」
喉の奥から、かすれた音が漏れる。荒れ狂っていた熱風は、ようやく勢いを失っていた。
だが、全身を包み込む焼け付くような痛みも、胸を圧迫する息苦しさも、すぐに引いてはくれない。皮膚の感覚は鈍く、同時に、どこを動かしても鋭い痛みが返ってくる。
ココアはゆっくりと瞳を開き、煙に滲む視界の中で現状を確かめる。痛む体を引きずるように、床に手をつき、慎重に起き上がった。
身にまとっていたメイド服は無惨に裂け、焼け、原型を留めていない。布に守られていたはずの場所は露わになり、痛々しい傷跡が隠しようもなく晒されていた。
転倒して衝撃を逃がしたとはいえ、爆心地に近すぎた。この距離では、ダメージを抑えきれなかったのも無理はない。
「──ひゅ、ぅ」
呼吸に合わせて、喉から喘鳴がこぼれる。それでも、必死に視線を巡らせ、煙の向こうを探す。
やがて、揺らめく灰色の中に、淡く輝く魔力の膜が見えた。アダムの防御魔法だ。
その内側に、アダムとアウルの姿がある。二人とも火傷を負っているようだったが、倒れてはいない。
――生きている。
その事実を確認し、ココアは小さく息を吐いた。
良かった。
「──ご、しゅじんさま……」
掠れた声が、喉の奥から零れ落ちる。片目から流れ落ちる血が視界を汚しているが、ココアはそれを拭おうともしなかった。
ゆらり、と身体を起こす。平衡感覚は曖昧で、世界がわずかに傾いて見える。
それでも、足に力を込めて立ち上がると、ヒールが床を叩き、乾いた音が狭い室内に響いた。その音を合図にするように、ココアは視線を巡らせる。
「ご主人様……?」
呼びかけながら、ふらふらと歩く。煙の残滓が漂う部屋は、爆発の痕跡で荒れ果て、壁も床も無残に傷ついていた。
その中を、確かめるように一歩、また一歩と進み――
「──え?」
次の瞬間、足裏に不快な感触が伝わる。
ぐちゃり、と。
明らかに、瓦礫でも床材でもない、生々しい音だった。
「──は?」
喉の奥から、低く、擦れた声が漏れ落ちる。無意識のまま、ココアはゆっくりと視線を落とした。
そこにあったのは、広がる血溜まり。そして、その中心に、形を失った肉の塊が転がっていた。爆発の熱と衝撃に晒され、原型を留めることすら許されなかったそれは、もはや「何か」としか呼べない。
「──ちがう」
反射的に、言葉が零れる。理解が、思考の手前で弾かれる。
「ちがう、ちがう」
否定の言葉だけが、意味を伴わずに繰り返される。歯の奥が、意思とは無関係にガチガチと鳴り始めた。
身体の芯から、熱が引いていく。指先の感覚が薄れ、視界の色が抜け落ちるように、頭の中が真っ白になっていく。
「違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」
虚ろな瞳のまま、壊れたように言葉を零し続ける。けれど、その口とは裏腹に、意識の奥では、もう答えに辿り着いていた。
それが、何であるのか。
誰のものであるのか。
理解は、すでに追いついてしまっている。
「──ご主人様……?」




