二章十九話 少女は愛しき日の夢を見るか
「────!」
声にならない気迫が、場の空気を震わせる。次の瞬間、空気中に含まれる水分が一斉に凍りつき、白い霧を引きながら氷が形を成した。
鋭利な刃となったそれが、ココアの手のひらに顕現する。一息も置かず、強く、確かに握り締めると、そのまま踏み込み、間合いを詰めた。
迷いのない動作で振り抜かれた氷の刃が、アランの頭部を強打する。鈍く重い衝撃音が響き、氷片が散り、凍りついた空気が砕け散った。
「酷いことするんだねぇ」
「────」
投げかけられた言葉に、ココアは応えない。視線だけを鋭く向けたまま、意識を内側へと沈め、瞬時にイメージを組み上げていく。
雷を、纏う。制御を一歩誤れば、自身の肉体すら破壊しかねない、限界ぎりぎりの出力。魔力が皮膚のすぐ内側を走り、全身が微かに、しかし確かに痺れるような痛みに包まれる。
空気が焦げ、光が滲む。それでも構わず、ココアは踏みとどまる。
「──奔れ、《フラッシュ・レイ》!」
詠唱と同時に、ココアは拳を強く握り締める。踏み込み、体重を乗せ、アランの顔面を吹き飛ばす勢いで殴りつけた。
だが、手応えは鈍い。元より異常なまでに高い強度を持つ肉体は、衝撃を受け止め、その反動が殴った側へと返ってくる。拳の内側に、鈍く重い痛みが走った。
それだけではない。雷を纏った影響で、手のひらが焼け焦げるような感覚が広がる。皮膚の奥まで熱が染み込み、感覚が一瞬、曖昧になる。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
アダムは、カオルの守護に魔力を割いている。アウルは、魔法が通る決定的な瞬間を探している。
ならば、今、この場でアランに攻撃を重ね、確実に隙を作れるのは、ココアだけだった。
痛みを無視し、焼ける感覚を押し殺し、ココアはなおも前へ出る。
「もっと可愛い顔してよ、せっかく可愛く生まれたんだから。ね?」
「──何故、貴方の好みに合わせる必要が?」
吐き捨てるように返しながら、ココアは片足を軸に据える。床を捉えた感覚を逃がさぬまま、身体を大きく回転させ、遠心力を乗せて腕を振り抜いた。
次の瞬間、その一撃がアランの腹部へと叩き込まれる。
鈍く、しかし確かな衝撃音が響いた。骨でも、肉でもない、どこか懐かしさすら伴う、その音。
ココアの意識が、一瞬だけ引き戻される。それは、かつてカオルと共に暮らしていた頃、何度も耳にした音だった。
「──は」
──思い出すのは、いつまでも色褪せることの無い記憶。
「──うわあっ!? やっちゃった!」
ガシャン、と重いものが落下するような音がした。
それにびくっと体を揺らしながら、ココアはカオルの元へと歩み寄る。
「あ、ココア……ごめんねぇ、大きな音してびっくりしたよねぇ」
カオルがぐすんと泣きながらココアを抱き抱える。
そして、カオルの足元に目をやれば、
「これねぇ、落としちゃったんだぁ……パソコン高かったのに」
パソコンと呼ばれる、硬い板。
それを、カオルは好んで使っていた。
「にゃぅ」
「んー? 心配してくれてるの? 平気だよ、怪我したらダメだから部屋から出ててね」
ゆっくりと扉が閉ざされる。
そして──
「──分かりましたよ! あなたの正体が!」
獰猛な笑みを浮かべ、そう言い切ると同時に、ココアは強く足を踏み込む。間合いを一気に詰め、相手に反応の余地を与えない。
身体を回転させながら跳び上がり、宙で腰を鋭く切る。その回転の勢いを余すことなく乗せた蹴りが、横合いから叩き込まれた。
着地の衝撃を逃がす間もなく、前へ出る。拳を振り下ろし、沈み込んだ反動を利用して、さらに肘を打ち込む。
一連の動きは淀みなく、攻撃は途切れない。
「──あなたが雷を嫌がった理由が、あなたの正体に繋がっていますね!」
かなりのダメージを与えたはずだった。連続した打撃は確かに命中し、衝撃も通っている。それでも、アランの呼吸は乱れない。
咳き込む様子すらなく、まるで何事もなかったかのように立っている。一見すれば、状況は絶望的だった。
それでも、ココアの口元はわずかに動く。
「やはり、ご主人様の記憶はいつでもわたしを助けてくれます」
その言葉は、戦況を覆す切り札の存在を、静かに告げていた。
「────」
ココアの言葉を黙って聞いていたアランの顔が、目に見えて険しくなる。口角が歪み、奥歯を噛み締めたのが分かった。
「──っ!?」
低く踏み切った反動で、床が軋む。アランの身体が弾丸のように跳ね上がり、宙で半回転。伸ばされた脚が唸りを上げて迫る。
ココアは上体を逸らすが、風圧が頬を掠める。直後、着地と同時に体を捻った拳が叩き込まれ、衝撃が内臓を揺らした。
間髪入れず、アランは沈み込む。軸足を支点に回転し、下から突き上げる蹴りが連なり、逃げ場を削り取るように距離を押し潰す。
肺を圧迫され、ココアの喉から短く空気が漏れた。身体が弾かれ、靴底が床を擦る。
それでも、
踏み止まる。重心を落とし、歯を食いしばり、衝撃を受け流す。
そして、次の瞬間。
口元に、無理やり作った笑みが浮かぶ。
「──触りましたね。あなたにとってそれは毒だと、理解しているでしょうに」
ココアは一歩、踏み込む。靴底が床を噛み、体重が前へ流れ込む。
見上げるように、アランをねめつける。雷を帯びた瞳が、至近距離で揺らがない。
「やはりあなたには足りない! 人の最大の長所が!」
言い切ると同時に、両手でアランの顔面を掴み、強引に引き寄せる。逃がさない距離。反射すら許さない近接。
次の瞬間、腰を切る。床を蹴り、体全体の勢いを乗せて、
膝が、真っ直ぐに突き上がった。
鈍い衝撃音。不快な音が空間に小さく反響する。
アランの頭部が揺れ、掴んだ指先に確かな重みが返ってくる。ココアはそのまま腕を突き放し、距離を作るために半歩退いた。
膝を下ろし、構えを崩さない。呼吸を整える間もなく、次の動きへ移れる姿勢。
「──やはり、そうでしたか」
──アランの顔から、血は流れなかった。
当たり前だ。彼には、血も涙もないのだから。文字通り。
「人の心なんて、あるわけありませんよね。だって……」
一歩、近づく。踏み出した拍子に、砕けた破片が靴底の下で音を立てた。
その瞬間、
音がする。
がしゃん。
ぴー。
顔面の一部が歪み、皮膚の奥から異質な光が滲み出る。割れた外殻の隙間から、無機質な配線と金属が露わになる。
それは、まるで──
「──あなたは、機械なんですから」
言葉と同時に、ココアはわずかに顎を引き、視線を落とす。見下ろす先では、顔面の裏にある回路を顕にしたアランが、ぎこちなく首を動かしてこちらを睨んでいた。




