二章十八話 クリティカルヒット
失われていた体温が、ゆっくりと、確かに戻ってくる。冷え切っていた四肢に血が巡り、世界が再び輪郭を取り戻していくのがわかる。
渇望していた光を浴びながら、ココアはただ願う。あの瞬間に確かめた幸福が、今度こそ隣に在り続けていることを。
その想いが、祈りにも似た形で胸の奥に落ちた刹那――
「──っ!」
どくん、と胸の奥で何かが強く打ち鳴らされたような錯覚に襲われ、ココアははっと瞳を見開く。
息ができる。
視界がある。
身体が、ここにある。
生きている、ただそれだけの事実を、確かめるように受け止めた、その瞬間。
「──ココア、ちゃん?」
黙り込んだままのココアを案じて、カオルがそっと身を乗り出し、その顔を覗き込む。汗に濡れ、呼吸も乱れたままの自分は、きっと酷い有様だろう。それでもカオルは顔をしかめることなく、ただ心配そうに眉を寄せ、ココアの手を包み込むように取った。
「ねえ、大丈夫? やっぱり疲れてる……?」
「──え?」
思わず零れた間の抜けた声と同時に、ココアは勢いよく視線を走らせる。壁の位置、床の感触、差し込む光の角度――自分が今、どこに立っているのかを確かめるように周囲を見渡す。
すると、聞き覚えのある低い声が、至近距離から降ってきた。
「どうした少女? 異臭がすると言っていたが──気分を悪くしたか?」
「──は」
言葉にならない息が喉から漏れる。状況が、あまりにも直前の記憶と重なっていた。
「──あうる、さん」
たどたどしく、揺れるような声で、その名を呼ぶ。喉の奥が引き攣れる感覚を押さえ込みながら、ココアは目の前の人物を見上げた。
アウルは振り返りもせず、真剣な横顔のまま、わずかに視線を伏せる。何かを噛みしめるような沈黙ののち、静かに、しかし確信を帯びた声音で口を開いた。
「異臭か……」
その言葉を耳にした瞬間、ココアの中で曖昧に揺れていた疑念が、音を立てて組み上がる。点と点が繋がり、逃げ場のない形で、一つの答えへと収束していく。
「──っ!」
息を呑む音が、鋭く漏れた。
「こ、ココアちゃん!?」
カオルが慌てた様子で振り向く。その視線を受け止める暇もなく、ココアは強く足を踏みしめ、即座に言葉を叩きつけた。
「アダムさん! ご主人様とアウルさんを守ってください! ──彼が……アランが、こちらへ来ます!」
「──!? なにか前兆があったか!」
「──はい!」
「そうか、わかった!」
即座に返された応答とともに、空気が張り詰める。アダムの髪は、まるで内側から光を放つかのように、いっそう透けるような青さを増していった。魔力の高まりが視覚として顕れ、周囲の色彩さえ僅かに押し退ける。
その一方で、ココアは迷いなく身体の向きを変える。窓へと向き直り、足を踏み込み、拳を構えた。
宙に舞う埃が、ゆっくりと落下していく。その一粒一粒の動きさえ、永遠にも等しく引き伸ばされたかのように感じられる、張り詰めた静寂が訪れた。
呼吸の音すら消えた、その刹那――
「──見つけ」
「言わせません!」
言葉が重なる前に、ココアは踏み込む。黒髪を大きく振り乱し、床を蹴り、全身の力を余すことなく拳へと集約させる。
渾身の一撃が、迷いなく叩き込まれた。
「あはは、強いね! 相変わらず!」
弾むような笑い声が、衝突の余韻の中で響く。
「──っ! 不快、です!」
吐き捨てるように言い放ち、ココアはさらに力を込める。拳の周囲に魔力が凝縮され、黒い奔流のように渦を巻く。そのまま振り抜かれた一撃は、確かな手応えを伴って、アランの鋼鉄のごとき肉体を真正面から貫いた。
空気が裂け、衝撃が弾ける。
「少女、しゃがめ!」
「はい!」
瞬時に返事を返し、ココアは反射的に身体を落とす。関節を外したかのように、軟体動物めいた動きで地へ伏せた、その直後、
稲妻のように鋭く、白く輝く魔力が、頭上を掠めて飛び抜けた。空気を切り裂く甲高い音とともに走ったその一撃は、迷いなく一直線に進み、狙いを定めていたのは、
アランの頭部だった。
「──ダメだなぁ、一瞬躊躇ったね?」
軽薄な声が、余裕を含んで響く。放たれた攻撃が致命へと至ることはなかった。
「躊躇ってなどいない。今のはただ、私の選択ミスだな」
アダムはそう吐き捨てるように言い放つ。感情を切り捨てた冷たい声音のまま、視線はすでに次を見据えていた。
間を置かず、思考は次の一手へと移る。追撃。それ以外の選択肢は、初めから存在していなかった。
「──《マインド・」
「いけませんアウルさん!」
アウルが詠唱を紡ぎ始めた、その刹那だった。空気の揺らぎ──魔力の流れを察したのか、アランの視線が鋭くこちらへと向けられる。
狙いが移ったことを、ココアは即座に悟る。思考よりも先に身体が動き、ほとんど反射的に魔力を解き放った。
視界を覆うように、魔法が展開される。アランの視線と意識を遮断するためだけに編まれた、瞬間的な妨害。
「彼相手では、常時の隙を作ることが難しいです。わたしが気を惹き付けられる瞬間がありましたら、その瞬間にお願いします」
短く、しかし迷いのない声音だった。戦況を冷静に見極めた上での判断であることが、その言葉の端々から滲んでいる。
「──そうみたいだね、ごめん」
「いえ、わたしも、会心の一撃は放てそうにありませんので」
そう言い切ると、ココアは視線を巡らせ、カオルの姿を確認する。アダムの魔力に包まれたその身は、淡く光を帯び、即席ながらも確かな防護の中にあった。
あの状態であれば、少なくとも、アランの攻撃を数度受け止めることはできるはずだ。
「──先程のように、殺意剥き出しの攻撃をされては、心もとないですが」
「ひとりごと? お話が好きなんだね」
「いえ、別に」
淡々と返しながら、ココアは一歩、強く踏み込む。鋭い視線で相手を睨み据え、間合いを詰めると同時に、腰を起点に身体を大きく捻った。
流れるような動作で腕を後方へ回す。その手が背中に隠れた、ほんの一瞬――視線の死角で魔力が収束する。
空気中の水分が急激に冷やされ、氷の魔法陣が展開される。生成された氷塊を、溜めもなく叩きつけるように前方へと解き放った。
「無詠唱? 強いんだね、すごいね」
「──バカにされていますね」
返答とともに、ココアの可愛らしい顔つきが、はっきりと険しいものへと変わる。眉が寄り、瞳には鋭い光が宿る。
だが同時に、その一撃に確かな手応えがなかったことも、ココア自身が痛いほど理解していた。氷が砕けた感触、反応の速さ――どれを取っても、決定打には程遠い。
だからこそ、次に備える。意識を内側へと向け、頭の中で、結果のイメージを強く、鮮明に膨らませていく。
「────」
言葉を発さぬまま、ココアは意識を一点へと絞り込む。散らばっていた魔力が急速に収束し、空気が震え、耳鳴りのような高音が周囲に満ちていく。
集中させられた雷は、やがて形を得る。奔流だった光は圧縮され、鋭さだけを残して一本の槍へと変貌した。雷光は揺らぐことなく安定し、触れれば即座に貫通を約束する危険な輝きを放っている。
ココアの導き出した結論が正しければ、これこそが、最も有効な一手。
「──貫け、《ライトニング・スピア》!」
叫びと同時に、雷の槍が解き放たれ、閃光となって一直線に突き進んだ。
「────!」
アランの顔に、普段とは異なる感情の色が差す。それは、嘲笑でも余裕でもなく、まるで思いも寄らぬ事態に直面したかのような──
「──焦りましたね」
ココアの言葉が響くと、アランは短く舌打ちをした。それは怒りとも悔しさともつかない、不快感のこもった明確な答えであり、彼の心中をありありと示していた。
「──嫌な子だね」
アランの声には、苛立ちと不快感が混じる。
「ありがとうございます」
ココアは語尾を甘く伸ばすように返し、その声には微かに意地の悪さすら含まれていた。まるでハートがつきそうなほど愛らしい響きで、しかしその狙いは明確だった。
確実にアランの心を乱すため。
「少女! その方向性で頼む! それが確実だ!」
後ろからアダムの声が響き、同時に魔力の流れが一変する。ココアは頷き、真剣な眼差しで前方を見据えた。
「──では、確実にご主人様を守ってください!」




