二章十七話 幸せとは
「────」
金属が擦れ合う、乾いた音が短く響いた。重なり合った鎧の隙間から、瞳を覗かせる。鈍く曇った兜の奥、覗いている瞳には焦点がなく、生きているはずの人間のそれとは思えないほど虚ろだった。
「──誰だ」
低く、感情の乗らない声が門前の空気を震わせる。
その問いに応えるように、一歩前へ進み出た影があった。
華美な仮面で顔の上半分を覆った青年。その姿は場違いなほど整っており、無骨な城門と騎士の鎧の中で、ひどく浮いて見える。曇天の下でも白く目立つ長髪には、白の中に黒が混じり、人工的な配色のような違和感を残していた。
「──お初にお目にかかります」
声は穏やかで、礼儀正しい。
仮面に遮られた目元は窺い知れないが、唯一露出している口元が、時間をかけるようにゆっくりと弧を描く。その笑みは柔らかく見えて、どこか測るようでもあった。
「──私は、吟遊詩人のイヴと申します。この国の素晴らしさを歌にしたく、お話を聞きに参りました」
言葉は滑らかに流れ、淀みがない。
城門前の冷えた空気の中で、その声音だけが妙に浮き上がり、作られた舞台の幕開けのように静かに響いていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「──騎士団に、ですか?」
その言葉とともに、ココアはわずかに首を傾げ、怪訝そうな視線をアダムへ向けた。周囲の空気は静まり返っており、遠くの物音すら意識しなければ聞き逃してしまいそうだった。
「ああ。今のところ、観測されているのは平民のみだ。貴族たちにはこの事態が及んでいない可能性もある」
淡々とした口調で告げられたその分析は、事実を切り取っただけのはずなのに、場に冷たい影を落とす。アダムの視線は個人に向けられることなく、まるで状況そのものを見据えているかのようだった。
「そうだとしたら、それはそれで酷い話な気がしますね……」
カオルはそう言って、わずかに眉を下げる。感情を荒立てるほどではないが、納得しきれないものを胸に抱えたまま、静かに言葉を零した。その声は抑えられていたが、沈黙の中でははっきりと響き、三人の間に残る違和感をより際立たせていた。
「とはいえ、それはあくまで推測だ。無差別的なもので、私たちのいるこの街にたまたま被害者が集中したという可能性もなくはない」
カオルの表情に浮かんだ沈痛さを視界に捉え、アダムは語調をわずかに和らげて言葉を継いだ。その声音は落ち着いていて、事実を曲げることはないまま、余計な断定だけを慎重に避けているようだった。
「でも、探りを入れるとしてもどうするんだ? この国に僕の伝手はないぞ」
アウルは困惑を滲ませながら問いかける。現状を受け入れつつも、打つ手のなさがそのまま言葉に現れていた。
「奇遇だな、私もだ。だから……」
アダムは一拍の間を置き、視線をわずかに伏せ、
「──吟遊詩人を装う。幸運なことに、私たちは見栄えがいいからな」
さらりと言ってのけたその提案は、内容だけを切り取れば自信過剰にも聞こえかねないものだった。だが、アダムの口から放たれたそれには、誇示や冗談めいた響きはほとんどなく、あくまで現実的な選択肢のひとつとして淡々と提示されているにすぎない。その落ち着いた態度が、言葉の端にあるはずの自惚れを感じさせず、場に奇妙な説得力をもたらしていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「──後ろの者もか?」
「はい。自己紹介を」
あまりにも白々しいアダムの言葉に、ココアは小さく息を吐きながらも、その求めに応じた。表情には疲労とも呆れともつかないものが滲んでいるが、声は乱れず、場に合わせた落ち着きを保っている。
「──ショコラです。隣にいる彼はナギサと言います」
名を告げながら、ココアは自然な動作でカオルへと手を伸ばした。指先がそっと距離を詰め、その存在を示すように触れかける。
「なっ、ナギサ? です……」
不意に振られた名に、カオルの声が思わず裏返る。わずかな動揺は隠しきれず、言葉尻が揺れたまま宙に落ちた。
そんなところもかわいい。
「──クロウです」
最後に名乗ったのはアウルだった。低く抑えられた声は静かで、余計な感情を乗せていないように聞こえる。だが、その表情には一言では言い表せない色が滲んでいた。
「──いいだろう、何が聞きたい?」
「そうですね、まずは……」
クロウ──もといアウルが、落ち着いた調子で騎士の問いに答えていく。その受け答えは淀みなく、言葉選びも慎重で、場を刺激しないことに細心の注意が払われていた。
その様子を横目に捉えながら、ココアはわずかに身体を寄せる。
「──イヴ、さん」
「なんだ?」
呼びかけに、アダム──今はイヴと名乗っている男が視線だけを向ける。
「偽名を名乗る必要があったのは理解しています。仮面も、顔が割れるとまずいですから」
「そうだな」
「──ですが、少し楽しんでいますよね?」
ココアは、じろりとアダムを軽く睨んだ。その視線には咎めるほどの強さはないが、見逃すつもりもないという意思が滲んでいる。
「──どうだろうな?」
「いえ、絶対に楽しんでいます。吟遊詩人という設定を通すためとはいえ、偽名に付随して随分と深く設定を練っていましたよね」
「仕方ないだろう、ここは敵地で油断ができん」
「本当にそれだけですか?」
声を落とし、ひそひそと応酬を続ける二人のやり取りは、外から見れば密談というより小さな言い合いに近い。張り詰めた場の空気の中で、それはひどく浮いたやり取りでもあった。
やがてココアは、呆れたようにひとつ息を吐き、視線を逸らす。その仕草には、これ以上追及しても無駄だと悟ったような諦めが、静かに滲んでいた。
「──ろくに意見の出せなかったわたしが言える立場ではありませんから、これ以上は言いませんが……戦闘向きのわたしは、裏で備えていた方が良かったのではないですか?」
「少女ひとりが戦ったとして、相手に勝てそうか?」
「────」
真正面から突きつけられた言葉に、ココアは思わず口を噤んだ。反論しようとした思考は、途中で行き場を失い、胸の奥に沈んでいく。
そうだ、この潜入の目的は、アランの居場所を特定すること。そのためには、国の現状をある程度把握する必要がある。派手な衝突や不用意な行動は、むしろ遠回りになる。
冷静に考えれば考えるほど、足元が揺らいでいるのは自分のほうなのかもしれなかった。ココアはその感覚を否定することもできず、ただ静かに受け止めるしかなかった。
「そう沈んだ顔をするな。少女の見目の美しさなら、相手の警戒を緩ませるかもしれないだろう? 男はいつでも美しい女と美味い酒に弱いものだからな」
「それは……わたしは男ではないのでなんとも言えませんが」
軽口めいたやり取りではあるが、アダムの言葉に棘はなかった。むしろそこには、先ほどのやり取りで生まれた沈黙を和らげようとする意図が、はっきりと含まれている。
それを敏感に感じ取って、ココアの胸の奥に、じんわりとした温もりが広がった。不安が完全に消えたわけではないが、張り詰めていたものが少しだけ緩む。その感覚に身を委ねるように、彼女はわずかに頬を緩ませた。
「──イヴ、ショコラ。行こうか」
「──はい」
アウルから、偽名を呼び捨てで呼ばれる。普段は必ず「ちゃん」を付けて呼ぶ相手に、慣れない呼び方をされたことで、ココアの意識は一瞬、そちらへ引き戻された。
そのギャップに戸惑い、反応がわずかに遅れる。すぐに状況に合わせたものだと理解はできたものの、呼び方ひとつで空気が切り替わったことを、ココアははっきりと自覚していた。
「──クロウさんは、イヴさんに対しては随分と砕けた話し方をされますが、今のはそれに似てましたね」
「──クロウは、私と話す時は、私の話し方に似るんだ。無意識だろうがな」
そんな短いやり取りを交わしながら、アウルとカオルが肩を並べて歩いていくその少し後ろを、ココアとアダムが距離を保って追う形になった。
通りには一定のリズムで足音が重なり、石畳の上でココアのヒールが小さく鳴る。硬質な音が静かな街路に溶け込み、四人が同じ目的のもとに進んでいることだけを、淡々と刻んでいた。
「──クロウさん」
呼びかけながら、ココアはわずかに歩調を速め、アウルの隣へと並んだ。肩が触れ合うほどではないが、先ほどまでよりも近い距離だ。
「──ちょっと待ってね、人通りの少ない宿にでも行こう」
「はい」
成果を聞こうとしたココアの内心を見透かすかのように、アウルは先回りして答える。その穏やかな口調に、含みを持たせることも、余計な説明を添えることもなかった。
それだけで状況は十分に伝わったのか、ココアはそれ以上問いを重ねなかった。目的地が決まった途端、宿までの道のりは、驚くほど短く感じられた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「──あー、疲れたなあ! アウル!」
「そんな大きな声を出したら……」
溜まっていた疲労を振り払うかのように、アダムが大仰に声を上げる。それを制そうとして、ココアは思わず振り返り、咎める言葉を口にしかけた。
だが、その瞬間、
「心配はいらない。魔法で音を遮断してある」
「それならいいですけ、ど……」
安堵しかけた言葉は、途中で途切れる。ココアの視線は、自然とアダムの顔へと吸い寄せられていた。
そこにあったのは、先ほどまでとは明らかに異なる色彩だった。
燃え盛る炎を思わせる青。透明感を帯びたその色が、光を孕みながら髪となって彼の顔周りを縁取り、現実感の薄い美しさでそこに存在している。
あまりに異様で、そして目を離しがたい変貌に、ココアはただ息を呑むしかなかった。
「──どうしたんですか、髪」
「私は魔法を使うとこうなるのだ! 可愛いだろう?」
「いえ……どちらかというと、変わりすぎて少し怖かったです」
そう少し呆れたように言葉を切り、ココアはアウルに視線を移す。
「──アウルさん、防音されているとのことなので、もう偽名は使いませんが……」
「うん、もちろんそれでいいとも。偽名は慣れなくて違和感があるからね」
「アウルさん、単刀直入に聞きますが、騎士の方は、なんと……?」
言葉の端に、ほんの少しだけ不安を滲ませながら、ココアはアウルを見上げた。
「──そうだね」
アウルはそう前置きし、仮面を外しながら、記憶を辿るようにゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。その仕草には焦りはなく、得た情報を丁寧に整理してから伝えようとする慎重さが滲んでいる。
「最近あった出来事を聞いたのだけれど、これと言って特筆すべきことはなかったそうだよ。探りも入れてみたけれど、大して綻びのあるものでもなかった。真実とみて差し支えないだろうね」
「──つまり、何も異常はなかったと」
ココアは確認するようにそう言い、言葉の意味を噛みしめる。
それなら、ココアたちは手詰まりだ。目立った異変がない以上、狙いを定めることもできない。残された道は、地道に足を使い、国中をしらみ潰しにしていくしかない――そうした現実が、静かに重くのしかかってきていた。
「──アウル、探りを入れたということは、国民の異変についても触れたのか?」
透き通るような青に染まった髪の奥から、沈んだ黒の瞳を覗かせながら、アダムは静かに問いかけた。
「ああ。それについても、はっきりと聞けば怪しまれるからさりげなくだが」
「──返答は?」
「──皆さん幸せそうでしょう? が答えだそうだ。この国は無宗教だったはずだが、タチの悪い宗教のような物言いをする」
アウルの口調は冷静だったが、その言葉選びにはわずかな違和感が滲んでいた。幸福という曖昧な言葉で一様に塗り固められた返答は、事実としては整っているはずなのに、どこか人為的で、息苦しさを伴っている。
「──一層、この国からの脱出が最優先事項となったな。騎士でさえも呪いの毒牙にかけられているなら、民たちは尽くそれに食い潰されているはずだ」
「──ですが、手がかりゼロとなれば、探すのは容易ではありませんね」
この国は、地図で確認できる範囲だけでも相当に広い。都市も村も点在し、その一つひとつを当たるとなれば、時間も労力も際限なく消費されるだろう。
かつてココアがカオルを探すために用いた探索魔法も、この規模を前にしては焼け石に水だ。範囲を広げれば精度は落ち、絞れば見落としが増える。どちらに転んでも決定打にはなり得ない。
選択肢が削られていく感覚だけが、静かに、しかし確実に積み重なっていった。
「──アランが、なにか騒ぎを起こせば居場所の特定も可能ですが……」
「その可能性は限りなく低い、だろうな。私の知識を持つクローンだ」
「──ですね」
短いやり取りのあと、言葉は途切れる。ココアは、為す術がないという事実だけを改めて突きつけられたかのように、そっと視線を落とした。その表情には、焦りとも諦めともつかない苦しさが滲んでいる。
それを目にして、カオルは思わず眉を顰めた。声をかけるべきか迷いながらも、今は見守ることしかできないと理解しているようだった。
一方、アウルは沈黙の中で思案に沈む。何かを手繰り寄せるように意識を巡らせ、その視線は定まらないまま、静かに思考の奥へと沈んでいった。
「それにしても、空気が悪いな。いくら科学の発展した国とはいえ、ここまで空気が汚れるものか?」
アダムはそう呟きながら、窓の外へと視線を向けた。街並みは一見すると整っているが、外気を思わせる澱んだ気配が、薄く室内にまで入り込んできている。
「確かに、異臭は目立ちますね。排気が影響しているのではないかと考えましたが……」
ココアも同意するように頷き、鼻先を掠める匂いを意識する。その正体を理屈で説明しようとしながらも、どこか腑に落ちない様子だった。
「確かに……でも、なんか、ガスとかの匂いじゃないんじゃないかな?」
「──? ご主人様、それはどういう……?」
「うん、俺も上手くは言えないんだけど……」
そう前置きして、カオルは視線を落とした。美しい銀髪の隙間から覗く宝石のような紅い瞳が伏せられ、その声も自然と小さくなる。
「王国で、俺は森で気絶してたんだけどね」
「はい、その節は、ご到着が遅くなって申し訳ないです……」
思わず頭を下げるココアに対し、カオルは慌てたように両手をぱたぱたと振った。
「違うよ、そうじゃなくて」
謝罪を否定し、言葉を選ぶように一拍置いてから、続ける。
「──その時にしてた匂いと似てたから、排気なら、王国にもあったってことになるから」
「その時にしてた、匂い……ですか?」
「うん。森の中で嗅いだ匂いと似てるから、排気で汚れたってわけじゃないのかなあって」
「────」
カオルの言葉を受け、ココアは黙り込んだ。鼻先を掠める異臭と、過去の出来事が、静かに重なっていく。すぐに答えが出るような話ではなく、思考は自然と内側へと沈んでいった。
言葉を失ったまま、ココアはただ考え続ける。まだ輪郭を持たない違和感だけが、胸の奥で形になろうとしていた。
「アダムさんは、なんだと思いますか?」
「残念ながら、私には……」
「──いや、これは」
ココアとアダムの言葉が重なりかけた、その隙間を縫うようにして、アウルが口を開いた。低く、しかしはっきりとした声音だった。
それまで沈黙を保っていた彼が割って入ったことで、場の空気がわずかに引き締まる。思考の糸を手繰り寄せた末に辿り着いた何かが、今まさに言葉として形になろうとしている。
「──アウル、なにか心当たりがあるのか?」
問いかけるアダムの声は、努めて平静を装っていた。しかし、その奥にはわずかな緊張が滲んでいる。彼自身、口に出す前から答えの輪郭に触れてしまっているのかもしれなかった。
「ある。……が、個人的には、外れていて欲しい」
アウルは即答せず、ほんの一瞬だけ言葉を選ぶ間を挟んだ。その声音は静かで、淡々としているが、いつもの軽さはない。
「何故」
短く問い返すアダムの表情が、わずかに強張る。
「──これが真実なら、アダムのクローンを探している場合ではなくなるからだ」
その言葉は、宿の静かな室内に重く落ちた。
事態の深刻さを端的に示す一文に、空気が一段階冷えたように感じられる。
「──どういうことだ?」
アダムはさらに踏み込む。
頭の中に過ぎったあり得てほしくない可能性を振り払うようにしながらも、それを無視することはできなかった。頬の筋肉が無意識にこわばり、視線がアウルに固定される。
──答え次第では、これまでの前提すべてが崩れ去る。
「──この国の人間は、」
アウルが、慎重に言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
「──見つけた」
「────」
空気を裂くように響いたその声に、ココアの体が一瞬で強張る。
耳に届いた途端、思考よりも先に、反射的な緊張が全身を駆け巡った。
聞き覚えがある。
忘れるはずがない。
背筋に冷たいものが走り、呼吸がわずかに浅くなる。宿の静寂が、まるで嘘だったかのように引き裂かれた感覚だった。
ココアは、視線を声のした方へ向ける。
胸の奥で、嫌な予感が形を成していく。
そして、
「──ッ! ご主人様!」
叫ぶと同時に、ココアは反射的に腕を伸ばした。
だが、その動きは、あまりにも僅かな、しかし致命的な、遅れを伴っていた。
「あはは、素晴らしい愛だね!」
嘲るような笑い声が響いた刹那、無防備に晒された脇腹へ、鋼鉄の塊のような蹴りが容赦なく叩き込まれる。
衝撃は肉を貫き、骨を直撃し、砕ける感覚とともに、肺から空気を根こそぎ奪い去った。
息ができない。
理解するより先に、ココアの瞳が大きく見開かれる。
「が、ぐ……っ」
かすれた呻き声を残し、その身体は抗う間もなく宙を舞い、壁へと叩きつけられた。
鈍い衝突音が部屋に響く。
右側の視界が、唐突に途切れる。
潰れた右目は壁に叩きつけられ、そのまま弾けるように飛び散り、もはや機能を果たすことはなかった。
全身を貫く激痛の中で、ココアは必死に左目だけを動かす。
歪む視界の向こうに、ただひとつ――
カオルの姿を捉え、その無事を確かめるために。
「──ぐ、ぶ……」
喉の奥から絞り出すような音とともに、口元から血が溢れ落ちる。
床へ滴る赤が、やけに鮮明に映った。
脳髄を直接突き刺されているかのような痛みを、ココアはただ精神力だけで押さえ込む。呼吸をするたび、傷ついた内臓が悲鳴を上げ、身体の内側がぐちゃりと嫌な音を立てて軋んだ。
傷んだ内臓に無理を強いるようにして、ココアは強引に身体の向きを変える。骨と肉が擦れ合う感覚が、身体の芯まで響き渡り、視界が一瞬白く弾けた。
全身が悲鳴を上げる中、必死に首を動かし、視線を走らせる。
歪んだ視界の端、死角になっていた位置に──
ココアは、ようやくカオルの姿を捉えた。
「──! ご主人様!」
呼びかける声は、もはや叫びにもならず、喉の奥で掠れて消えかけていた。
指の一本を動かそうとするだけで、神経を直接引き裂かれるような痛みが走る。呼吸ひとつにも全身が拒絶反応を示し、身体はもはや意思に従う器官としての役割を放棄しつつあった。
立っているとも、倒れているとも言い難い。
生きている、と形容することすら躊躇われるほどの惨状。
それでも、ココアは意識を手放さない。
視界は歪み、音は遠のき、世界が薄く引き伸ばされたように揺らぐ中で、ただ一つ、視線の先だけを捉え続ける。
全身を蝕む激痛の底で、ココアは最後に──
「──ぁ」
か細く零れ落ちた声とともに、ココアの視界に映ったのは、血に濡れたその姿だった。
全身が血にまみれ、床や壁に散った赤が、なおも身体から滴り落ちている。
艶やかだったはずの綺麗な銀髪は無残にも血で汚れ、光を失い、顔には、これまで一度として見たことのないほどの苦悶の表情が浮かんでいた。
眉は歪み、唇は引き結ばれ、耐えがたい痛みに必死に抗っていることが、その表情だけで嫌というほど伝わってくる。
けれど、
「──生きてる」
その言葉が、かすかな祈りのように空気へ溶けた直後だった。
固く閉じられていたカオルの瞳が、ゆっくりと、確かに開かれる。焦点は定まらず、揺れるように瞬きを繰り返しながらも、そこに意識が宿っていることは明白だった。
力なく投げ出されていた指先が、微かに、ほんの僅かに動く。痙攣とも取れるその動きは、それでも生の証であり、否定しようのない現実だった。
唇の隙間から、か細い吐息が漏れる。掠れた音が静かな室内に落ち、まだ終わっていないことを、確かに告げていた。
「──ご主人様ぁっ……」
震える声とともに、ココアは手を伸ばす。
指先に力を込めようとした瞬間、全身を貫く痛みが遅れて押し寄せ、思うように腕は持ち上がらない。それでも、わずかにでも距離を詰めようと、床を引きずるように身体を前へと動かす。
そして、
カオルの綺麗な深紅の瞳が、ゆっくりと焦点を結び、ココアの姿を確かに映し出した。
血に濡れ、片目を失い、満身創痍のその姿を、揺らぐ視界の中で捉え──
「──ぅ」
短く、掠れた音が喉から漏れ落ちる。
カオルの深紅の瞳に映っていたココアの姿――その首元が、次の瞬間、無惨にも形を失った。肉と骨が断たれる感触が到達するよりも早く、視界が一気に赤へと塗り潰される。
鮮血が弾けるように広がり、世界の輪郭が崩れ落ちていく。音も、光も、距離感も曖昧になり、すべてが滲んだその瞬間と、
能力が発動したのは、ほとんど同時だった。




