二章十四話 光と影
「──ここが」
――レルド共和国。
アウルから聞いていた通り、ノクスリア王国と比べると、その文明のあり方にははっきりとした違いが見て取れた。
科学の発展が前面に押し出されており、魔法は日常の中ではあまり用いられていないように見える。
「……ご主人様、なにか感じませんか?」
ココアが、カオルにそう問いかけた。
けれど内心では、今のところ、カオルの心に強く響くものはないだろうとも思っていた。
日本に近いのではないかと、どこかで期待していたのだが、目に映る技術水準は、やはり遠く及ばない。
魔法のある異世界の人間たちが、一から積み上げてきた文明を、魔法のない現代社会で生きてきた尺度で測ること自体が間違いなのだと、頭では理解している――それでも、だ。
そして、案の定、カオルの口からこぼれたのは、
「──ごめん、あんまり……かも」
それは、どこか申し訳なさを滲ませた言葉だった。
その響きに、ココアはほんの少しだけ残念さを覚えはしたが、もとより過度な期待を抱いていたわけでもない。
そう思えば、仕方のないことだと割り切るのも難しくはなかった。
それよりも、今考えるべきなのは――これから、何をするかだ。
「アダムさん、例の件についてですが」
ココアはわずかに声を落とし、直接的な表現を避けながら、アダムへとそう話しかけた。
クローンのことは――おそらく、他人の耳に入ってはまずい話だ。
レルド共和国がどのような国柄なのかはまだ分からない。
だが、厄介事を抱えた人間を、進んで受け入れるほどお人好しな国ではないだろう。
「──うん、ああ。気が回るな君は」
「いえ。……すぐに見つかるとは、思えないですよね?」
「見つかってくれれば、こちらとしてもありがたいが……君は見ただろう?」
「はい。酷く頭が回る上に、人体の構造を理解しているからか、体術も秀でた方でした。見つかるような証拠を残すとは思えません」
彼は、これまでに何度も、ココアの命を奪ってきた。
タイムリープという、ある意味ではイカサマのような力を持つココアですら、抗うことのできなかった――それほどまでに、絶対的な危機。
それは、魔物のように手口さえ分かっていれば対処できる類のものではない。
タイムリープによって得られる断片的な情報だけでは、きっと彼には勝てないのだろう――そう思わされてしまうほどに。
「──ですが、目的のためなら手段を選ばないところはあると思います。……本来の目的はわたしではなかったようですが、わたしを殺すことを厭わない様子でしたから」
──アウルが狙われていたという事実を、今ここで口にすべきか、ココアは迷っていた。
もしアランが、アダムのクローンであるのなら、アウルが標的にされていたことには、偶然以上の意味があるはずだ。
だが、それを知れば、アウルはきっと、ココアの負った怪我に対して責任を感じてしまう。
そのことが、容易に想像できてしまった。
――アランを捕まえて、これ以上、何もさせなければいい。
そんな考えが頭をよぎる。
だがそれは、作戦と呼ぶにはあまりにも勝機が薄く、ただ目の前の現実から逃げるための、愚かな思いつきに過ぎない。
それでもなお、その浅はかな考えが、ぐるぐるとココアの頭の中を巡り続けていた。
「うむ、そうだな……」
アダムは一瞬だけ言葉を切り、まるで思考の奥底に沈んでいた何かを引き上げるように、わずかな間を置いた。
その沈黙ののち、ゆっくりと顔を上げ、隣にいるアウルへと視線を滑らせる。
「この国を見て回る、というのを私は勧めるが」
「この国を?」
アウルの方を向いたままそう言い切ったアダムにココアが不思議そうな顔をする。
「ああ。少年の記憶喪失――それを解決するには、元の記憶を刺激するための“記憶”が必要だ」
アダムは淡々と、しかし確信をもって言い切る。
「そのためには、様々な経験をするのがいちばん早い」
その理屈を受け取り、アウルは小さく息をついた。否定も驚きもなく、ただ慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「──そうだな。カオルくんの記憶喪失は、病気や呪いの類ではない。僕にも、明確な解決手段は検討がつかないんだ」
そう前置きしてから、アウルはゆっくりとココアへ視線を向ける。その金色の瞳には、答えを押しつけるつもりのない、静かな問いかけだけが宿っていた。
「ココアちゃん、どうかな」
意志を確認されているのだと、ココアは理解する。誰かの判断ではなく、自分自身の選択として。
もちろん――ココアにとって、いちばん大切なのは、カオルが満足に、幸せに生きられること。記憶が戻るかどうかではなく、どんな未来を歩けるかという一点において。
だから、迷う理由はなかった。答えは、はじめから決まっている。
「もちろん、そうしましょう!」
ココアは迷いを断ち切るように、明るく、快活に言い放った。その声には、不安や逡巡の影は一切なく、ただ前を向く意思だけが詰まっていた。
その答えを受けて、アウルはほっとしたように目を細め、柔らかな笑みを浮かべる。アダムは肩を揺らし、「いい返事だ!」と楽しげに声を上げた。そして――カオルは、
「────」
言葉はなかった。ただ、眉をわずかに下げたまま、穏やかに笑っている。
その笑顔は、拒むものでも、完全に納得したものでもない。どこか遠慮がちで、相手を気遣うような――自分の本音を胸の奥にしまい込んだままの、静かな笑みだった。
その笑顔が、優しさと同時に、ほんの小さな引っかかりを孕んでいることに、カオルは気づいていなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「では行こうか、少年と少女!」
アダムは高らかに声を張り上げ、まるでこれから始まる旅そのものを楽しんでいるかのように言った。その呼びかけに、ココアは一瞬だけ目を瞬かせてから、むっとしたように口を尖らせる。
「──あの、わたしには、ココアっていう立派な名前があるんですけど」
「知っている! が、少女の方が呼びやすい!」
胸を張ってそう言い切るアダムに、間髪入れず、ココアが声を張り上げる。
「呼びにくいでしょう!?」
鋭いツッコミが飛び、場の空気が一気に軽くなる。
その様子を横目に、アウルは慣れた様子で小さく息をつく。額に指を当てる仕草は、これが何度目かの光景であることを雄弁に物語っていた。
一方、カオルは二人のやり取りを、少し首を傾げながら眺めている。その勢いに乗り切れていないものの、その軽やかな応酬が悪いものではないと感じているようで、優しい表情を浮かべていた。
「……はぁ。まあ、呼び名に関しては構いません。好きに呼んでくれて……」
一通りのやり取りを経て、ココアは小さく肩を落とし、半ば諦めたようにそう口にした。抗議する気力よりも、この人物に正論をぶつけても無駄だという理解の方が、少しだけ勝ったのだ。
「すまないね、ココアちゃん。これはずっとこんな感じなんだ」
「──アウルさんは、アダムさんとは長いんですか?」
ふと湧いた疑問を、ココアは控えめに投げかける。その問いに、アウルは一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せ、それから静かに答えた。
「……まあ、最近はあまり会っていなかったけれど。一緒にいた時間は、長かったよ」
「なるほど……」
その瞬間、アウルの表情が、ふっと和らぐ。優しく、どこか慈しむような――過去を懐かしむ者だけが浮かべる、静かな微笑みだった。
それ以上を聞くのは、なんとなく申し訳ない。言葉にしてしまえば、壊れてしまいそうな何かがある気がして、ココアはそこで会話を切り上げた。
「──あっ、お腹すきませんか!? わたし、何か買ってきますよ!」
場に流れかけた静けさを振り払うように、ココアは少し大きめの声を上げた。その声音は明るく、いつも通りを装っているが、どこか急いている。
「そっか、ありがとう。ココアちゃん。このお金で、なにかお願いしてもいいかな」
アウルはそう言って、穏やかに微笑みながら小金を差し出す。気遣いと信頼が混じったその仕草に、ココアはぱっと表情を明るくした。
「もちろんです!」
即座に頷き、元気よく答える。そして踵を返すと、気まずさから逃げるように、あるいは考える暇を自分に与えないために――ココアは早足で、人いきれの中に並ぶ出店の方へと向かっていった。
「──わ、色々売ってますね……」
思わず零れた声は、素直な驚きだった。屋台が立ち並ぶ通りには、香ばしい匂いと人々のざわめきが満ちていて、目に入るものすべてが新鮮に映る。
視線を巡らせると、そこにはハンバーガーのようなものと、りんご飴のようなものが並んでいた。形も、使われている材料も、記憶の中にあるそれらとよく似ている。──けれど、どこかが違う。
パンの焼き色、肉の厚み、飴の照り。細部を見れば見るほど、微妙な違和感が浮かび上がってくる。やはり、文明の差なのだろうか。それとも、この世界なりの工夫なのか。
一瞬、そんなことを考えかけてから、ココアは小さく首を振った。いや、ここは比べるべきじゃない。
異世界の人たちが、自分たちなりに工夫し、作り上げたものだ。そう思えば、そのすべてが愛おしくさえ感じられる。
何より、そのおかげで、ココアはずっと食べてみたかった“ジャンクフード”を、こうして手に取ることができるのだから。
期待に胸を弾ませながら、彼女は屋台の前へと一歩踏み出した。
「あの、これ――四つください!」
弾んだ声でそう告げると、ココアは屋台の品を指さした。いつも通りの、明るく愛想のいい調子だったはずだ。
「──はい」
返ってきたのは、短い一言。それだけなのに、ココアは思わず瞬きをする。
「──?」
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちた。
酷く、陰鬱とした声だった。いや――陰鬱というより、感情が削ぎ落とされたような、温度のない声。喜びも、苛立ちも、驚きもない。ただ音として発せられただけの声。
──あれ?
違和感が、じわりと広がる。無意識のうちに、ココアは顔を上げた。
何か失礼なことをしてしまっただろうか。値段のこと? 言い方? それとも、知らないうちに作法を破った?
理由を探そうとする思考とは裏腹に、胸の奥のざわめきは消えない。その正体を確かめるために、ココアは、屋台の向こう側へと視線を向けた。
「──あ、」
思わず、喉が鳴った。
背筋を、ぞくりと冷たいものが走る。理由は分からない。ただ、本能的に――触れてはいけない何かを前にした感覚だった。
「──お代、頂戴します」
淡々と、抑揚のない声。先ほどと同じ、感情の抜け落ちた響き。
「ぁ、は、い……」
ココアは、声が震えるのを必死に押し殺しながら答えた。指先に力を込め、震えをごまかすようにして代金を差し出す。
けれど、視線は手元に落ちなかった。金額を確かめることも、硬貨の感触を意識することもできない。
ただただ――目の前にいる存在から、目が離せなかった。
「────っ」
虚ろな目。生気の感じられない瞳。表情を形作ってはいるはずなのに、そこに“感情”というものが一切見当たらない顔。
それは人間の形をしていながら、人としての温度を失っているように見えて――
ココアの視線は、釘付けになったまま、動かなかった。




