二章十二話 歪な旅路
「クローン……」
ココアは、その言葉を心の中で反芻した。
頭の中にある数多の語の中から、それと一致するものを探り当て、やがてその意味を思い出す。
「同一の起源を持ち、なおかつ均一な遺伝情報を持つ核酸、細胞、個体の集団……ですね」
「固い言い方だが、その考え方で申し分ないな。……しかし、私の場合は、人間としての肉体を生成したわけではない。私がいくら天才的であっても、男の体ひとつで新たな生命は作り出せない」
「──? ですが、あなたのクローンだと……」
「──そうだ。私の有する、無くすには惜しい知識を未来へ残すため、私は、クローンを作ることを……」
「──アダムさん?」
アダムは言葉を切り、数秒のあいだ沈黙した。
ココアが不思議そうな顔で名を呼ぶと、アダムはすっと表情を切り替え、その視線をココアの奥に立つアウルへと移す。
「──クローンを作った経緯に関しては、あまりに長く、聞いていて不快になるものだ。悪いが、必要最低限だけ話させてもらうぞ?」
「は、はい! それは……ご主人様さえよろしければ、わたしとしては全く構いませんが……」
ココアはカオルへと視線を向け、構わないかと無言で意思を確かめる。
カオルがオーケーのハンドサインを作るのを見て、ココアは小さく頷き、再びアダムへと視線を戻した。
「──君と少年の関係性も、私たちに負けず劣らず複雑なようだ。……アウルは、いつも貧乏くじを引くな」
その言葉には、アウルを嘲る響きも、見下すような棘もなかった。むしろ逆だ。胸の奥に沈殿した不安をどうにか言葉の形にしようとした結果、掬い取られたもの――どうしようもないほどの憂慮と、隠しきれない優しさが、滲むように込められていた。
だからこそ、彼女は一瞬、言葉を失ったのだ。
アウルに向けられたその感情の正体に気付いてしまった以上、軽々しく茶化すことも、強く否定することもできない。あれは善意だ。歪ではあるかもしれないが、間違いなく――守ろうとする心から生まれたものだった。
しかし同時に、それを正面から受け止めるには、ココア自身の覚悟が足りなかった。考えれば考えるほど、適切な言葉は霧散していく。
ココアは無意識のうちに唇を噛みしめていた。きゅっと小さく力を込めることで、胸の内に込み上げる迷いと戸惑いを押し留めようとするように。
逡巡の末、彼女は自分がどうしても知りたいことだけを選び取った。
そして、わずかに震える息を整え、ココアは口を開いた。
「あなたのクローンは、どれくらい強いんですか?」
「どれくらい……と言われると、返答が難しいがね。記憶の複製時の私の知識を全て有しているんだ。魔法や呪術に関してなら、並大抵の強さではないだろう。その上、肉体的にも、かなり上澄みのはずだ。理由は言えない、すまないな」
「いえ、十分です。わたしも、骨をいくつか折られていますから……強いと聞けて、安心しました。わたしが弱いわけではないのだと分かって」
「いや、その件に関しては本当にすまないな!? よく私を殺さなかったものだ。顔だけなら、かなり似ているだろう」
「はい。殺意が湧きましたが……ご主人様とアウルさんが、あなたを信頼されているようでしたので、いきなり殺してはいけないかと判断しました。それに、わたしも、命を奪うのは嫌いです」
「……だろうなぁ。私も、人を殺すのはいつだって嫌な気持ちになるさ」
互いに、胸の奥ではさまざまな思いが渦巻いていた。
けれどそれを言葉にしてしまえば、何かが壊れてしまう気がして、どちらも半端に口を開くことができない。
張りつめた空気の漂う中で、二人はただ視線を交わす。
沈黙さえも、緊迫の色を帯びていた。
「──あなたの目的は、なんですか?」
「──君たちには、クローンの回収を手伝って欲しい。あれは、存在してはいけなかった」
「──それは……ご主人様、構いませんか」
「うん、俺は……ココアちゃんの方こそ、いいの? 怪我……そうだよ、怪我! 痛いよね……? 手当てしないと!」
「構いませんよこれくらい。魔法で治癒をはじめているので、安静にしていれば明日には治るかと」
「なんでそんなに冷静なの!?」
落ち着いてくると、確かに痛みがあった。
骨そのものが揺さぶられているような感覚――言葉にしがたい不快さが、じわじわと全身を貫いてくる。
それでもココアにとっては、そんなことは些細な問題にすぎなかった。
目の前で、カオルが不安に眉を寄せ、今にも泣き出しそうな顔をしている。
その光景の方が、痛みよりもずっと胸に重くのしかかっていた。
「──ご主人様、そんな顔をしないでください。わたしなら平気ですから」
「うぅ……アダムさんを手伝うのはいいよ。でも、ココアちゃんがそれで無茶をするなら、賛成は……」
「──ご主人様……」
言葉が、喉の奥で絡まって消えた。どう返せばいいのか分からない。ただひとつ確かなのは――カオルが、心の底から自分を案じているという事実だった。
その想いが、胸の奥をじくりと締めつける。
もしも、この先。彼を守るために、ココアが人として越えてはならない一線を踏み越えてしまったとしても。
それでも――カオルは、今と同じ眼差しで、彼女を見てくれるのだろうか。
恐怖は、未来ではなく、彼の変わってしまうかもしれない心に向いていた。
「──わたしなら平気です。それに、彼──アランは、放っておいてはいけません。いずれ、ご主人様が傷つけられるかもしれませんから」
「ココアちゃん……」
その言葉が、ほんの僅かに噛み合っていなかったことを、ココアはまだ知らない。すれ違いは、音もなく生まれ、静かに横たわっていた。
だからこそ、彼女には、カオルが浮かべたその表情の意味が、分からなかった。
胸の奥を濡らすような、あまりにも静かな――悲しみを湛えた、その微笑の理由を。
「──少しいいかい?」
「──! アウルさん」
「僕としても、彼に協力するのは賛成だ。何より、少しの間でも、彼とともにあれば戦力になる」
「戦力……」
そう考えてみれば、ココアたち一行の戦力は、決して高いとは言えなかった。もしこの状況をゲームに置き換えるのなら、前線に立つ役割を担っているのは、ほぼ間違いなくココアだろう。
彼女が攻め、道を切り開く。だが、ココアはカオルを戦場に立たせることを望んでいない。できることなら、争いそのものから遠ざけたいとさえ思っている。
一方のアウルは、冷静で、ココアを支えてくれている。前に出ることは少ないが、状況を支え、崩壊を防ぐ存在――役割で言えば、恐らくタンクに近い。
「ヒーラーも、わたしがやろうと思えばできますが……そもそも、いつでも戦えるのがわたしだけというのも、いいとは言えませんよね」
「うむ、やはりアウルは制約に縛られたままなのだな! それに、そこの少年は……君の意向か?」
「──ご主人様に、危険なことなどさせられません」
「そうだろうな、まあ、私としては、協力してくれるのであれば、そちらの体制になるべく口を挟まぬ気だが」
アダムはそこまで言うと、ふっと言葉を切った。そして、何の前触れもなく、ココアの前へと手のひらを差し出す。
意図の読めないその仕草に、ココアは一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。差し出された手と、アダムの顔を交互に見比べる。
「協力の握手だ。君とはこれから、長い付き合いになりそうだからな」
そう言って、ココアの小さな手のひらと、アダムの手のひらが、静かに重なった。指先から伝わってくるのは、思いのほか確かな温もり。
それは、不思議なほどに穏やかで――かつて触れた、アランの手が持っていた冷たさとは、あまりにも対照的だった。
同じ顔を持ちながら、まるで別の存在であることを、その温度差だけが、雄弁に語っているようだった。
「──そうなると、素敵ですね」
ココアの胸の奥を、罪悪感と焦燥が一瞬、走り抜けた。重く、息苦しい感情。逃げ場のないそれが、確かにそこにあった。
けれど――今は、それに囚われている場合ではない。
それは、今この瞬間に抱えるべきものではなく、もっと先で向き合うために、そっと脇へ置かれるべき感情だった。
「──共和国へと、わたしたちは向かいますが、アダムさんもそれで構いませんか?」
「ああ、もちろん。私が向かう場所に、必ずあれはいる。あれは、私なのだからな」
「──かしこまりました。アウルさん、」
「分かっているとも。アダムも座れ、頭を打つぞ」
「私にだけ随分な言い方じゃあないか。悲しいな」
「──お前は優しくすると調子に乗るだろう」
アウルは、どこか呆れたように小さく息を吐いた。肩に力を入れすぎていた糸が、ふっと緩むような仕草だった。
それを見て、カオルとココアは顔を見合わせる。言葉にしなくても、同じことを考えているのが分かって、ココアは小さく微笑んだ。
「──ご主人様ご主人様、アウルさん、楽しそうですね」
囁くような声に、カオルは一瞬だけ目を細め、それから視線をアウルの背に向けた。
「うん。俺たちとだといつも気を使ってくれてるから……アダムさんと会えて、良かったかもね」
その言葉に、ココアはぱっと表情を明るくした。
「はいっ」
短く、弾むような返事。
その声音には、ささやかな安堵と、言葉にしない優しさが滲んでいた。




