二章九話 イレギュラー
──ココアは、元来、なんの苦しみもない陽だまりの中で生きるべき生命体だ。
黒猫として生を受けた彼女は、動物が嫌いなくせにペットショップで金儲けを繰り返す趣味の悪い女の元で数年を過ごし、愛すべき人に出会えた。
だから、ココアには、本来、ここまで苦しむ理由なんてないはずだった。
けれど、理由を見つけるとするなら、おそらく、あの時だ。
カオルが車に撥ねられ、ココアは、カオルを失うことを強く恐れた。
失いたくない、離れたくないと、無我夢中に彼の魂の輪郭を知覚し、それを掴んだ。
動物は不思議なものが見えると言うが、それにしても、ココアは人並み以上にその能力が強かったのだろう。
だから、本来猫であるココアが巻き込まれるはずのないものに、ココアはなし崩し的に巻き込まれたのだ。
それを、良しと捉えているのはココアだけ。
カオルが真実を知れば、巻き込んだことに心を痛めるだろう。
そして、『元凶』はきっと──
「──煩わしい」
◇◇◇
「────!」
「──あれ、避けるの? すごいね」
眼前に迫る攻撃。
それをすんでのところでココアは躱し、折れていない方の足でアランの腹に重い一撃を蹴りこんだ。
アランの腹は硬く、まるで手応えは感じられない。
だが、目的はアランの再起不能ではなく距離をとることだ。
そちらはきちんと達成しているから、構わない。
「──い、たい……! 最悪!」
恨み言が口からこぼれ落ちる。
気を抜くと、涙が溢れた情けない姿を晒しそうになる。
実際、今も「痛い」と泣き叫んで暴れたいほどだが、そんなことをしても状況は改善しない。
むしろ、相手の狙いはココアのそういった姿にあるだろうと推測する。
なら、ココアがやるべきは弱い姿を見せることではない。
「──ご主人様、ご主人様……!」
まるで魔法の呪文が胸の奥に灯ったかのように、ココアの豊満な胸元へと、じんわりとした温もりが広がっていく。
その確かな熱を感じ取った瞬間、ココアは迷いなく地を蹴り──
「──癒せ、《ホーリー・リメンド》」
ココアはそっと自らの足へと治癒魔法を流し込んだ。
裂けていた筋繊維が縫い合わさるように滑らかに戻り、折れた骨も音もなく元の位置へと収まっていく。
痛みが霧散し、再び全力で駆け出せる確かな感覚が、足先からじんわりと満ちていった。
「──纏い斬れ、《フロスト・ブレイカー》!」
拳と脚に氷の術式を刻み、そのままアランの真ん前へと全速力で走る。
猫の時の影響が色濃く残る身体能力は、人間に置き換えるとなかなかに恵まれたものとなる。
だが、アランのスピードもすごく早い。
ココアに接近し、足を掴んで骨を折るまでの時間は5秒もなかったのだから。
ココアの行動を確認した途端、アランも攻撃の構えに出る。
だが、ココアは慌てない。
「──っ!」
そのままココアは、渾身の力で、アランの顔面へ拳を叩き込んだ。
びり、と電流のような衝撃が拳を駆け抜ける。しかしアランが受けた衝撃は、そんな生易しいものではない。
鈍い音とともに彼の身体は大きくのけ反り、まるで空気そのものが震えるかのようだった。
「──が、」
それもそのはずだ。
ココアが先程使った魔法は、魔法の使用者の身体に伝わる衝撃の大きさだけ、出力される威力が変化する。
その上、手足に刻まれた術式が、一瞬で氷を生成し、威力とともに氷が爆散されるのだ。
アランの身体の硬さと、性格上避けずにココアをおちょくりたがるだろうという推測が、見事なまでに的中した。
どさ、と見た目よりも重そうな音が響き、ココアは地に伏せるアランを冷たい瞳で見下ろす。
「──人間の硬さじゃないですよ、あなた。どれだけ鍛えているんですか」
その力を、ココアやカオル、そしてあの少女を殺すためになど使うとは、なんて悲しいことだろう。
もしももっとまっとうな場所で、正しいためにその強さを振るっていたのなら、もしかすると、彼とは肩を並べて戦える、いい仲間になれていたのかもしれない。
「──なんて、世迷言は言いませんが」
正しさも強さも、立場次第だ。
どちらが正しいなんて、そんな問答をすることに意味はない。
なんて、そんなふうに考えていれば、
「──はは、」
「──なにが、おかしいんですか?」
「おかしいよねぇ。だって、君は、笑えるほどにお人好しだ」
「──自分の顔面を殴り飛ばした相手をそう形容するとは、相当女好きなお方ですね」
「──そうじゃないよ。君はやっぱりわかっていないね。だって、」
ココアは、アランの浮かべる下卑た笑みを苛立ちを隠さずに睨みつけた。
だがアランの瞳は、どこか企むようにココアの背後ばかりを追っている。
何を狙っているのか。
そう問いただそうと、ココアが目を細め、唇を開きかけたその刹那──
「──ココアちゃん!」
「──────は、」
ココアの背後から、聞き慣れた低い声が聞こえる。
振り向いてはいけない。
目を離せば、アランは確実に逃げる。
ココアの渾身の一撃を食らっても、血すら吐かない。
悔しいが、アランに致命傷は負わせられていない。
だから、振り向いては──
「──なーんだ、騙されないのか。でも、隙ができたね」
「────っ!」
アランの顔つきが、さきほどまでの余裕を含んだ表情へと一瞬で戻った。
その変化を前に、ココアは瞳を大きく見開き、彼の言葉の意味を必死に咀嚼する。
なにか仕掛けてくる。
そう直感し、身構えたココアをよそに、アランは唇の端を吊り上げた。
次の瞬間、彼の拳が稲妻のような速さで伸び、ココアの細い腹部を正確に撃ち抜く。
衝撃に肺の空気が一気に押し出され、ココアは声どころか息すら奪われた。
「──か、っ……ふ、」
激痛に息を詰まらせながら、ココアは腹を押さえて身をよじった。
地面に倒れ込み、かすかにもがく彼女とは対照的に、アランはゆっくりと立ち上がる。
余裕そのものの仕草で指先を髪へ滑らせ、乱れた前髪をかき上げた。
「いやぁ、良かったよ。流石に、今ので隙ができてくれなかったら、君は心のない怪物かなにかだからね」
「──な、ぜ……あの人の、声を」
「あぁ、そこを言ってなかったね。俺はさ、君たちがこの街に来るのを見てたんだ。狙いは元々、君の連れてたお兄さんの方。なんてったっけ、名前……ああそう! アウルだ。でも、君も面白そうだから、先に遊びたくなっちゃって」
地に伏すココアの豊満な胸元へ、アランの靴底が無遠慮にのしかかった。
返事を求める気配すらなく、アランは一方的に言葉を垂れ流し続ける。
ココアは苦痛に顔を歪めながらも鋭く睨みつけたが、アランの表情は微動だにしない。
むしろその足先をぐり、と押しつけ、胸骨を軋ませるように動かすたび、ココアの堪えきれない呻きだけが静かに漏れた。
「──何故、っ……けほ、アウルさんを」
「そんなの簡単だよ。あのお兄さん、王国での嫌われ者でしょ? そんな人が共和国に来るなんて……面白いことに決まってるよね」
「──どこでその情報を」
「さあね。そこまでは教えてあげない」
そう言い放つや否や、アランの足が横薙ぎに振り抜かれ、ココアの脇腹を正確にとらえた。
そのまま彼女の細身な身体は木の幹へと叩きつけられ、乾いた衝突音が周囲に響く。
衝撃で黒髪が大きく揺れ、ココアは息をのみ、堪えきれずに苦悶の声を漏らした。
「──じゃあね。可愛いメイドさん」
アランが踵を向け、走り去っていくのが見える。
ココアは、人生で三番目くらいの無力感と苛立ちのままに──
「──返事に、なってません」
声のカラクリを知ることの出来ないままに、木の枝を掴んで、ふらっ、と立ち上がった。




