十話 黒猫とご主人様
「──というわけで、まずはわたしの自己紹介からいたしますね! わたしの名前はココア、ご主人様がつけてくれた名前です!」
「──そっか、よろしくね。ところで、ご主人様って?」
「──ご主人様、猫を飼っていた記憶とか……ない、ですか?」
「──ごめんね」
「あっ、いえ、いいんです。生きていてくれるだけで、わたしは嬉しいですから」
ココアが頬を染め、嬉しそうに笑う。そして、真面目な顔に戻してカオルの手を取り、
「ご主人様の……あなたの名前はカオルです」
「カオル……」
口に出すが、カオルは違和感を覚えたのか顔を顰めてしまう。
「──やっぱり、思い出せそうにありませんか?」
「──うん、ごめんね。思い出したいんだけど……」
「いえ、わたしの方こそ、何回もすみません。大丈夫です! きっと、いつか思い出せますよ」
ココアがそう柔らかい声色で口にすれば、カオルは少しだけ表情を弛め、
「……君のことは思い出せないけど、嫌な感じはしないんだ。きっと、前の俺は君を心から大切に思っていたんだね」
「今のご主人様にも大切に思わせてみせます! わたしの腕の見せどころです!」
ココアが腕に力を入れてぐっと力んで見せれば、カオルは「ふふっ」と柔らかく笑い、目線をアウルへ移す。
「──あなたは?」
「──僕はアウル・アクセル。しがない学者だよ」
「学者……」
納得したように頷くカオルを他所に、ココアが「学者だったんだ」と小さく零していたことは、誰も気付いていなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「──というわけでご主人様の記憶を取り戻す旅に出ます!」
「おー!」と手を挙げながらココアが元気に叫ぶ。カオルは困惑しながらも小さく「おー……?」と手を挙げ、アウルはそれを楽しそうに見つめていた。
「アウルさんはまだ、手伝ってくれますか?」
「ココアちゃんがいいならね」
「わたしは手伝って欲しいです。でも、アウルさんも忙しいのかなーって……」
「──今はないから、お手伝いするよ。ココアちゃんとカオルくん」
「──! ありがとうございます!」
「ありがとうございます……っ」
カオルが緊張と動揺で声を裏返しながら返事をする。
そして、
「カオルくんは、何も覚えていないんだったね?」
「あ、はい。自分の名前も覚えてなかったので……」
「──ふむ……ちょっとごめんね?」
「えっ」
アウルがカオルの瞳を至近距離で見つめる。
「アウルさん!? ダメです、いくらアウルさんでもご主人様を渡すわけにはぁっ……!」
「? どうしたんだいココアちゃん。……うん、判定できたよ」
「えっ? 判定……?」
「うん。記憶喪失の原因がね」
アウルは少しだけ瞳の奥に影を落とし、言葉を選ぶ。そして、一拍空いたあと、
「──多分、この子の記憶喪失は、ショック性のものだ」
「ショック性のもの……」
「うん。魔法が脳に影響を与えているようでもなかったし、ココアちゃんのような能力も……今は確認できていないからね。そう考えるのが自然かな」
「──じゃあ俺は、何か大きな出来事に記憶を飛ばされたと……」
「魔法や病気と違って症例は少ないけれど、きっかけで取り戻しやすいことでもある。そこまで気を落とさなくてもいいと思うよ」
「つまり、ご主人様の記憶はいつか戻るってことですか!?」
「その可能性は高いね。きっかけ次第ではあるけど……」
アウルの言葉に、ココアは嬉しそうに笑う。希望が見えた。それだけで十分だ。
「ご主人様!」
「なに? ココアちゃん」
「わたしと旅をして、たくさん色んなものを見ましょう。そうしたらきっと、ご主人様を取り戻す何かと出会えるはずです」
「──色んなもの……」
「わたしは諦めません。ご主人様を今度こそ、守り抜いてみせますから」
カオルの手を取り、握る力が増す。
それは、お願いや誘いというより懇願だった。
カオルの記憶を取り戻させて欲しい。カオルを守らせて欲しい。カオルの人生の隣にいるのは、ココアで在らせて欲しい。
「────」
カオルは力が抜けたように笑い、ココアの黒髪を撫でる。
「君に見捨てられたら、俺、記憶多分取り戻せなくなるよ。だから、ちゃんと手伝ってね?」
「──! はい、もちろんです!」
ココアの顔が、弾けたような笑顔に変わる。嬉しい。カオルに頼ってもらえた。猫だった時には、こんなことは出来なかった。
「ご主人様……」
カオルに抱きつき、ココアは、温もりを噛み締める。
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「──とりあえずは、カオルくんのショックの原因を予測しないとね……」
「──位置的には、魔物ではないかとわたしは思います。わたしが倒した魔物に襲われていたのでは……」
「それなら、生きていることはありえないと思うよ。魔物に襲われて無傷というのは、少し考えづらい」
「そうですか……なら、何でしょう……?」
「──うーん……」
アウルが唸る。ココアも眉を顰めて考え込む。
「──なら、何かしらの恐ろしいものを見たか……外傷はなかったから、襲われてはいないようだよ」
「──考えても答えの出ない類だと俺は思うな。本当に、全く心当たりがないから……」
「──でしたら、探すのみです! 早速、向かう国を決めますっ!」
「もう?」
「早いね、ココアちゃん」
アウルにもらった地図を広げ、ココアは指で辿る。
「アウルさん、どこがいいと思いますか?」
「うーん……カオルくんが記憶を取り戻す為の旅なら、劇的な変化は効果的かもしれないね」
「──と、言いますと?」
「──向かうべきはこの国だね」
アウルがすっと指を指す。ココアとカオルがそれを目で辿れば──、
「──レルド共和国?」
知らない国の名前が、記されていた。




