第9話:遠き眼差し
第9話:遠き眼差し
蜀漢の都・成都。その中心に聳え立つ丞相府の一室で、若き丞相、諸葛瞻 思遠は、父が遺したあまりにも重い職務の山に、押しつぶされそうになっていた。
偉大すぎた父、諸葛亮孔明。その死後、国を支えた蒋琬も亡くなり、今や事実上の最高権力者である大将軍・費禕も病がちとなった。人材不足に喘ぐ蜀漢が、その血筋と類稀なる才能に最後の望みを託す形で、彼は異例の若さでこの丞相という重責を継ぐことになったのだ。
だが、その道は決して平坦ではなかった。朝議に出れば、古参の臣下たちは口を開けば「先代の丞相閣下はこうであった」と彼の政策を値踏みし、陰では「親の七光り」と囁かれていることも知っていた。実権の多くは未だ費禕が握っており、自分の政策を実行するには、常に彼の顔色を窺わねばならない。彼は、その怜悧な頭脳と、父譲りの政の手腕で、北の強国・魏からの軍事的圧力や、国内の豪族たちの不満といった山積みの難題を、必死に、そして見事に捌き、かろうじてこの国の体面を保っていた。
窓から差し込む陽光を浴びて、静かに父の形見の羽扇を揺らす。その理知的な瞳には、年齢にそぐわない深い疲労と、決して誰にも見せることのない、孤独な闘志が宿っていた。
彼は焦がれていた。偉大な父の影ではなく、自分自身の力でこの国を導くための、真の光明を。そして、父が夢見た漢室復興という、あまりにも遠い理想の重責を、共に分かち合える、真の同志を。
「丞相、南の建寧郡より、衛将軍・姜維殿の定期報告書が届いております」
側近の馬遵が、一枚の羊皮紙を恭しく差し出した。
「建寧? ああ、土地か」
諸葛瞻は特に興味もなさそうにそれを受け取った。どうせいつも通り「支援をお恵みください」といった、聞き飽きた泣き言が並んでいるだけだろう。彼はそう高を括っていた。
姜維の報告は、主に南中の兵站状況についてだったが、その末尾に、追伸として短い一文が添えられていた。
『――かの地の太守代行、劉玉蘭様は、当初の予想に反し、民心掌握に類稀なる才覚を見せつつあり。その手法は、従来の慣習に囚われぬ、注目に値するものと愚考す』
(……ほう。あの石頭の姜維が、皇族を、それも若い女を褒めるとはな)
その意外な記述に、諸葛瞻は初めて興味を引かれた。彼は密偵に追加調査を命じた。数日後、届けられた詳細な報告書に目を通すうちに、彼の涼やかな眉がぴくりとわずかに上がった。
報告書の内容は、彼が今まで目にしてきたどの地方報告とも全く異なっていたのだ。
『――皇女、当初、知識を過信し改革に失敗。民の前で土下座し謝罪』
『――その後、民の知恵を学び、土地固有の作物“赤珠果”の栽培に成功。兵糧としての可能性あり』
『――自ら薬草を学び、負傷した兵の救護にもあたる。その知識、宮中の医官に匹敵す』
書かれていたのは、泣き言ではなかった。それは、失敗と屈辱から這い上がり、民と共に泥にまみれ、現実的な成果を積み上げている、一人の指導者の記録だった。
(……面白い。この姫は、ただ辺境で泣き暮らしているわけではないらしい)
諸葛瞻は報告書から目を上げ、窓の外に広がる都の景色を見つめた。
(民と共に汗を流し、その暮らしを第一に考える……。父上が生前、常々口にされていた理想の為政者の姿そのものではないか……)
父・諸葛亮は、法による厳格な統治を敷いたが、その根底には常に民への深い慈愛があった。その父の理想を、まさか宮中の誰よりも、あの追いやられた皇女が体現しようとしている。彼女には、自分にはない自由さと行動力がある。
彼の薄い唇の端に、かすかな、本当に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……面白い」
(面白いが、危険だ。父上が理想とした為政者の姿…か。だが、それは同時に、中央の統制から外れ、独自の王国を築きかねない危険分子でもある。父の影を追うだけの俺にはない、恐るべきカリスマ性…)
諸葛瞻は報告書から目を上げ、窓の外に広がる都の景色を見つめた。
彼の薄い唇の端に、かすかな、本当に、かすかな笑みが浮かんだ。
(この姫は、父が遺した漢室復興という大戦略を完成させるための『最高の駒』になるか、あるいは全てを破壊する『鬼火』となるか。……この目で直接、査定せねばなるまい)
「馬遵」
「はっ、丞相」
「劉玉蘭様を、都へ召喚せよ。この実に興味深い報告書の詳細について、この私が直接『査定』する必要がある」
彼は、この劉玉蘭という名の女性に、強い強い関心を抱き始めていた。それは、男が女に向けるような生温かいものではない。優れた将棋の打ち手が、盤上に現れた予想外の「鬼手」に魅せられるような、知的で、冷徹な興味だった。
彼女は、父が遺した漢室復興という大戦略を完成させるための、最後の、そして最も重要な「駒」になるかもしれない。
「馬遵」
「はっ、丞相」
「劉玉蘭様を、都へ召喚せよ。この実に興味深い報告書の詳細について、この私が直接『査定』する必要がある」
「なっ……! し、しかし丞相、皇女とは言え、一介の太守代行に過ぎぬ方を、丞相が直々に……?」
「前例がないなら、今ここで作ればよいだけの話だ」
諸葛瞻はこともなげに言った。その瞳には、もはや父の跡を継ぐ者の重圧だけではない、新たな人材を見出した為政者の、純粋な好奇の光がきらきらと輝いていた。「父上が夢見た、漢室の新たな光か、あるいは国を揺るがす鬼火か。……この目で確かめねばなるまい」
***
一方、その頃。
魏の都・許昌では。
若き天才と謳われる官僚、鍾会 士季が、蜀漢の内部に潜らせた密偵からの報告書に目を通していた。その報告書は、彼が金に糸目をつけず張り巡らせた情報網からもたらされた、極秘のものである。彼はまだ軍の総大将ではないが、その圧倒的な才気と野心は隠しきれず、魏の権力中枢で頭角を現し始めていた。
「……ほう。蜀の南の蛮地に、劉備の血を引く赤髪の皇女とな」
報告書には、玉蘭が婚約を破棄し、自ら辺境へ赴き、驚くべき手腕で土地を改革している様が、諸葛瞻が読んだものよりさらに詳細に記されていた。
鍾会の、その理知的で、しかし野心に満ちた瞳が、きらりと鋭く光った。
(水路建設、土壌改良、未知の作物の商品化……。どれもこれも、あの古臭い蜀の官僚どもには到底思いつきもしない、革新的な発想だ。しかも、一度失敗し、そこから這い上がった、と? くくく、馬鹿げている。だが、なんと痛快な! 既存の秩序を、自らの意志で破壊し、新たな価値を創造しようとしている。これは…俺と同じ種類の匂いがする。蜀には、まだこんな面白い人間が眠っていたのか…)
彼は自らの天才性ゆえに、常に周囲の凡人たちとの思考の隔たりに、深い孤独を感じていた。誰もが過去の栄光や旧弊な慣習にすがり、未来を見ようとしない。
(この女……。この劉玉蘭という女だけは、あるいは俺を理解できるやもしれん。俺が描く、この大陸の新たな未来図を……)
彼は蜀漢の地図を広げると、建寧郡のその位置を、まるで愛しい人の肌をなぞるかのように、その指でゆっくりとたどった。
「劉玉蘭……か。面白い。実に面白い……。蜀には、諸葛亮の亡霊だけでなく、これほどの逸材がまだ眠っていたとはな」
彼は地図から顔を上げ、窓の外の許昌の街並みを見下ろした。
「覚えておこう。いずれ我が覇道の上で、敵として相まみえるか、あるいは最強の駒として手に入れるか。いずれにせよ、実に楽しみな存在だ」
二人の若き天才。
彼らはまだ互いの存在を知らず、遠く離れた場所で、同じ一人の女性にその慧眼を向けていた。
一人は、彼女を国家を再興するための「最高の駒」として。
もう一人は、自らの野望を完成させるための「運命の伴侶」として。
玉蘭という一つの駒が、大陸の巨大な将棋盤の上で、極めて重要な意味を持ち始めていた。
その渦の中心にいる彼女自身は、そんなこととは露知らず。
ただひたすらに、建寧の土と格闘し、ささやかな収穫祭の準備に胸を躍らせているのだった。