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第8話:麒麟の素顔

第8話:麒麟の素顔

 嵐の夜の共闘から、数日が過ぎていた。

 建寧には、以前とは違う、どこかぎこちないながらも確かな連帯感が生まれていた。あの夜、身分も立場も超え、共に泥にまみれて戦ったという経験が、民と、そして姜維の率いる兵士たちの間に、見えない絆を育んでいたのだ。

 玉蘭と姜維の関係もまた、劇的に変化していた。

 互いに「ままごと姫」「石頭の朴念仁」と罵り合った頃の険悪な空気は消え去り、相手の能力を認め合う、静かな敬意が二人の間に流れていた。

 姜維は、民に混じって農作業の指示を出す玉蘭の姿を、少し離れた場所から、腕を組んで見ていた。都の女たちとは全く違う、泥を恐れぬその気高さ。そして、民を見つめる慈愛に満ちた眼差し。あの嵐の中で見せた彼女の姿が、彼の心を揺さぶったのは事実だった。だが、それを素直に認めるには、彼の性格はあまりに不器用だった。

 一方の玉蘭も、姜維の存在を強く意識していた。あの夜以来、彼は何かと理由をつけては彼女の周りに姿を見せるようになった。その氷のような態度は変わらないが、その視線に以前のような侮蔑の色がないことを、彼女は敏感に感じ取っていた。彼の存在は、心強いと同時に、どうにもペースを乱される厄介なものでもあった。

 そんな折、建寧郡では原因不明の熱病が散発的に発生し、民の間に不安が広がり始めていた。都の薬は高価で、ほとんど手に入らない。彼女は、この土地にあるもので解決する道を探していた。

 その日も、彼女は都から持ち出した諸葛亮の古文書と、この土地の薬草に関する伝承を照らし合わせるため、領地の背後に広がる深い森へと足を運んでいた。南中の森は、その独特の気候のおかげで都では手に入りにくい、解熱や鎮痛に高い効果のある貴重な薬草が数多く自生している。

 孟安が「一人では危険だ」と護衛を申し出たが、玉蘭は「あなたたちには畑仕事があるでしょう。わたくしは大丈夫よ」と、一人で森の奥へと分け入っていった。

 持参した編み籠がいっぱいになったことに満足し、立ち上がった、その時だった。

「……う、うぅ……っ……」

 不意にうっそうと茂る茂みの奥から、微かな、しかし明らかに人のものと思われる苦しげな呻き声が聞こえてきた。獣ではない。人間の、それも若い男の声だ。

 玉蘭は護身用に腰に差していた小さな短剣を強く握りしめ、音を立てないように慎重に声のする方へと近づいていった。南中の森には、猛獣だけでなく、いまだ漢に服従しない部族の民が潜んでいる可能性もある。

 茂みを掻き分けると、そこに倒れていたのは、数日前に見たばかりの見慣れた鎧を着た、若い兵士だった。あの姜維の部下の一人だ。

 その太ももには、巨大な猪のものと思われる牙が突き刺さり、夥しい量の鮮血が、彼の鎧の隙間から溢れ出て、周囲の落ち葉を不気味なほど黒く染めていた。彼の顔は、死人のように蒼白になっている。

「あなた、しっかりして! 大丈夫!?」

 玉蘭は咄嗟に駆け寄り、その傍らにためらうことなく膝をついた。

「あ、あなたは……建寧の……皇女様……?」

 兵士は、朦朧とする意識の中で、かろうじて彼女を認めた。

「いいから、喋らないで! いったい何があったの!?」

「偵察任務の途中で……大猪に……。仲間は、軍営に、応援を呼びに……ですが、もう、間に合わないかと……」

 途切れ途切れに話す彼の声は弱々しい。このままでは出血多量で命に関わる。

 玉蘭の頭が高速で回転した。とにかく、今ここでできる限りの応急手当をしなければ。彼女の脳裏に、古文書に記されていた戦場での救急処置法が鮮やかに蘇った。

「動かないで。傷を見せるのよ」

 玉蘭はためらうことなく、彼のズボンの硬い生地を、短剣で切り裂いた。露わになった傷口は想像以上に深く、そして土や木の葉で無残に汚れていた。牙の一部が、肉に食い込んだままだ。

 彼女は自分の水筒に残っていたなけなしの綺麗な水で傷口の汚れを慎重に洗い流すと、採取したばかりの数種類の薬草の中から、止血効果と鎮痛作用のあるものを素早く選び出し、平らな石の上で磨り潰して鮮やかな緑色の膏薬にした。

「少し痛むわよ。我慢なさい」

 彼女は意を決すると、食い込んだ牙を両手で掴み、一気に引き抜いた。兵士が苦痛に呻く。その傷口に、彼女は躊躇なく膏薬をたっぷりと塗り込んだ。

 そして、自分が着ていた木綿のシャツの裾を、大胆にビリリと引き裂くと、それを包帯代わりにして傷口の上からきつく縛り上げ、圧迫止血を施した。その一連の処置は、熟練の軍医もかくやというほどの、冷静で、的確な手際だった。

「……これで、ひとまずは大丈夫なはずよ」

 全ての処置を終え、玉蘭が額の汗を手の甲で拭った、その時だった。

馬忠ばちゅう! 無事か!」

 ガサガサと激しい音を立てて、数人の兵士たちが茂みの中から現れた。その先頭にいたのは、玉蘭が今一番会いたくないと思っていた人物――朴念仁の将軍、姜維その人だった。

 姜維は倒れている部下と、その傍らで応急手当を施している泥だらけの玉蘭の姿を認め、驚きに足を止めた。

 姜維は倒れている部下と、その傍らで応急手当を施している泥だらけの玉蘭の姿を認め、驚きに足を止めた。

「……皇女様? なぜ、そなたがこんな場所にいる」

 玉蘭は心底うんざりした顔で彼を見上げた。

「それは、こっちの台詞よ、姜維将軍。あなたの優秀な部下さんが、わたくしの領地で猪の餌になりかけていたから、介抱してあげていただけよ」

「介抱、だと? そなたのような姫君に、一体何ができる」

 姜維の言葉には、あからさまな不信がこもっていた。彼は倒れている部下、馬忠の元へ駆け寄ると、その傷口を検分した。

 そして、彼は絶句した。

(なんだ、この処置は…? これは、ただの博愛精神ではない。戦場で生きる者のための、実践的な知識だ。丞相が遺されたという古文書…あれは本物か。この姫は、ただの理想家ではない。恐るべき『実』を持った人間だ…)

 姜維は信じがたいといった表情で、玉蘭に問いかけた。

「……この処置は、そなたがやったのか」

 玉蘭はふんと可愛らしく鼻を鳴らした。

「そうよ。他に誰がいるっていうの? それとも、猪が親切に手当てでもしてくれたとでもお思いかしら」

 治療を受けていた馬忠が、か細い声で言った。

「しょ、将軍……。この方に、助けていただきました……。この方がいらっしゃらなければ、俺はきっと、もう……」

 部下からの直接の証言に、姜維はぐっと唇を噛んだ。自分の偏見が、全くの見当違いであったことを認めざるを得なかった。

 彼女はただの型破りな姫ではない。豊富な知識と、非常時にも臆することのない胆力を持つ、一人の人間だ。彼女がやっていることは、決して「ままごと」などではない。

 姜維は玉蘭に向き直ると、ぎこちなく、しかしはっきりと頭を下げた。

「……部下が世話になった。礼を言う」

 その意外すぎる行動に、今度は玉蘭の方が驚いて目をぱちくりとさせた。

 あの傲慢な朴念仁が、頭を下げている。その事実に、彼女の頬がカッと熱くなった。

「べ、別にっ! あなたに感謝されるためにやったわけじゃありませんわ! 」

 玉蘭はすっくと立ち上がると、服についた土をパンパンと払いながら、そっぽを向いて言い放った。

「この建寧は、わたくしの領地。その土地で兵士が倒れているのを見過ごすことなど、統治者としてできるはずもありません。ただ、わたくしの務めを果たしたまでですわ!」

 早口でまくし立てる彼女のその頬は、夕焼けのように真っ赤に染まっていた。

(面白い、という言葉では片付けられん。危険だ。この女の存在は、俺の、この国の、全てを狂わせるやもしれん…)

 姜維の氷のように凍てついていたはずの胸に、今まで一度も感じたことのない、奇妙な感情が芽生えた。

(あれだけのことをしておきながら、素直に礼を受け取ることもできんのか。強がって意地を張って、けれどその耳まで真っ赤に染まっている。俺が憎んでいた、虚飾と怠惰にまみれた都の貴人とは、まるで違う……)

 彼は心の動揺を悟られまいと一つ咳払いをすると、再び完璧な鉄仮面を装着した。

「……ともかく、この借りは必ず返す。後日、軍営から礼の品を届けさせよう」

「いらないと言っているでしょう、そんなもの! それより早くその人を軍営に連れて帰って、ちゃんとした手当てをしてあげなさいよ! ぐずぐずしないで!」

 玉蘭はそう言い捨てると、くるりと背を向け、拾い上げた薬草の籠を手にさっさと森の出口へと歩き去ってしまった。その、後ろ姿はまるで怒った猫のようだった。

 残された姜維は、その小さな、しかし誇り高い後ろ姿を、しばらくの間ただ黙って見つめていた。

 初めて会った時とは全く違う印象。

 彼女は、ただの我儘な皇女などではない。泥にまみれることを厭わず、豊富な知識を持ち、そして不器用ながらも確かな優しさを持つ、一人の人間だ。

 姜維の凍てついていた心に、劉玉蘭という炎のような存在が、予期せぬ形で小さな、しかし確かな亀裂を入れた瞬間だった。それはまだ恋ではない。だが、互いを一人のプロフェッショナルとして認め、その存在を無視できなくなった、確かな始まりだった。

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