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第7話:嵐の夜の約束

第7話:嵐の夜の約束

 衛将軍・姜維と、皇女・劉玉蘭が、互いを「石頭」「ままごと姫」と罵り合うという最悪の出会いを果たしてから、数日が過ぎていた。姜維は、この生意気な皇女の「改革ごっこ」の顛末を見届けるため、建寧に滞在し、その一挙手一投足を冷ややかに監視していた。


 その日、建寧の空は、突如として表情を変えた。今まで見たこともないような黒い雲が空を覆い尽くし、やがて、天の底が抜けたかのように、激しい豪雨が大地を叩きつけ始めた。

 それは、この土地に年に数度訪れるという、全てを洗い流すかのような熱帯のスコールだった。


 玉蘭たちが心血を注いできた実験農場は、みるみるうちに濁流に飲み込まれていく。

「土嚢を! もっと土嚢を積んで!」

 玉蘭は、降りしきる雨の中、ずぶ濡れになりながら叫んでいた。孟安をはじめ、若者たちも必死に奮闘している。


 その光景を、姜維は少し離れた館の軒下から、腕を組んで静かに見ていた。

(…自業自得だ。自然の厳しさを知らぬ、都育ちの姫の浅はかな計画が招いた結果よ)

 だが、彼の目に映る光景は、予想とは少し違っていた。姫は、泣き叫び、逃げ惑うどころか、誰よりも泥水の中に深く立ち、民の先頭に立って土嚢を運んでいる。その小さな体で、必死に濁流に抗っている。

「だめだ、姫様! このままじゃ、俺たちまで流されちまう!」

 孟安が、玉蘭の腕を掴み、避難させようとした。だが、彼女はそれを振り払った。

「嫌よ! ここを失ったら、建寧の明日がなくなるわ! わたくしは、諦めない!」

 その、あまりにも真摯な、そして愚直なまでの叫びを聞いた瞬間、姜維の凍てついていた心に、予期せぬ小さな火が灯った。

(…馬鹿者めが。だが、この姿は…民のために自ら前線に立ち、泥にまみれることを厭わなかった、亡き丞相の姿そのものではないか…? この姫は、俺が憎んでいた都の貴族とは、何かが違う…)

「…馬鹿者めが」

 姜維は、そう呟くと、もはや見て見ぬふりをすることはできなかった。彼は、自らの部下たちを一喝する。

「何を見ている! 姫君一人に戦わせ、我らがただ高みの見物をしているなど、蜀漢の兵として万死に値するぞ! 全員、続け!」


 雷鳴のような、厳しくも力強い声が、嵐の轟音を切り裂いて響き渡った。

 振り返った玉蘭たちの目に、信じがたい光景が飛び込んできた。

 泥濘をものともせず、馬から飛び降りて駆けつけてきたのは、数日前に舌戦を繰り広げたばかりの、あの忌々しい衛将軍・姜維、その人だった。


 彼は、腹心である屈強な将・傅僉ふせんに、即座に指示を飛ばす。

「傅僉! 兵を分け、水路を確保しろ! 我々がこの丘の斜面に溝を掘り、濁流を川へと逃がす! 敵は水だ! 流れを読み、流れを制するのだ!」

「はっ!」

 その指示は、長年、北伐の最前線で地形と天候を読み、土木工事にも精通してきた、百戦錬磨の将軍ならではの的確なものだった。

 姜維の兵たちは、一糸乱れぬ動きで、携帯用の鍬を手に、瞬く間に新たな水路を掘り進めていく。それはただの力任せの作業ではない。地形の傾斜を巧みに利用し、最も効率的に水を逃がすための、計算され尽くした動きだった。その無駄のない統率力に、孟安たちはただただ圧倒された。


 姜維は、自らも膝まで浸かる泥水の中に飛び込むと、兵士たちの先頭に立って巨大な流木を押しとどめ、土嚢を運んだ。その鬼神の如き姿に、玉蘭は息を飲んだ。

(これが…本物の将軍……。ただ槍を振り回すだけの武人ではない。民を守り、大地を治める、真の指導者……)

 孟安は、我に返ると、仲間たちに叫んだ。

「何を見てやがる! 俺たちの村だぞ! 将軍と兵士の方々に、任せきりにしていいわけがねえだろうが! やるぞ、お前ら!」

「「「応っ!!」」」

 その夜、建寧の民と兵士は、一つになった。

 身分も、出身も関係ない。ただ、この土地の未来の芽を守るという、一つの目的のために。肩を並べ、泥にまみれ、声を掛け合い、彼らは一晩中、自然という巨大な敵と戦い続けた。


 やがて、東の空が白み始め、嵐が嘘のように過ぎ去った時。

 実験農場を囲むように作られた即席の水路は、見事に機能し、か弱い赤珠果の苗は、奇跡的に守られていた。

 朝日を浴びてきらきらと輝く、濡れた赤い実を見つめながら、姜維は疲れ果てて座り込む孟安に静かに言った。

「俺はまだ、この姫を完全に信用したわけではない。だが、この小さな実が、いつかこの土地を支える大樹になる。姫君は、それを信じて戦っておられる。俺たちは、そのために、ただ力を尽くすだけだ」

 その言葉が、孟安と、その場にいた全ての建寧の民の心に、決して消えることのない、熱い炎を灯した。

 姜維将軍は、俺たちの希望を、姫様と一緒に、命がけで守ってくれた。彼は、俺たちの恩人であり、英雄だ、と。


 そして、ついに最初のささやかな収穫の時期がやってきた。畑には、珠玉のように輝く赤い実が、たわわに実っていた。

 この奇跡の実りを、そして嵐の夜の共闘を分かち合いたい。玉蘭は、この建寧に希望の光をもたらしてくれた全ての者に感謝を捧げるため、ささやかな収穫祭を開くことを決意したのだった。

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