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第6話:漢中の麒麟

第6話:漢中の麒麟

 北伐の最前線、漢中の軍営は、常に鉄と土埃の匂いがした。天を突くような秦嶺山脈から吹き下ろす風は、兵たちの乾いた喉と、すり減った心を、さらに冷たく締め付ける。

 その殺風景な幕舎の一つで、蜀漢の衛将軍・姜維 伯約は、都から届いた報告書を握りつぶさんばかりに、その眉間に深い深い皺を寄せていた。

 報告書には、彼が命懸けで前線を維持している間に、都の貴族たちが宦官・黄皓に取り入り、貴重な軍費を横領して私腹を肥やしている様が、無味乾燥な文字で、しかし生々しく記されていた。

「……またか。北では兵たちが血を流し、一椀の粥をすすって飢えを凌いでいるというのに、都の連中は宴と贅沢三昧で国庫を食いつぶす……!」

 彼の低い声には、怒りというよりも、むしろ壮年の英雄が抱える、やり場のない焦燥が滲んでいた。

(亡き丞相……。あなたが命を賭して守ろうとしたこの国は、内側から腐り落ちようとしていますぞ。軍の全権を握る大将軍・費禕様は国力の充実を第一とし、俺の進言する大規模な北伐に、ことごとく難色を示される。だが、この好機を逃せば魏はさらに強大になる。このもどかしさを、都で安穏と暮らす者たちに、一体何がわかるというのだ…)

 彼の胸にあるのは、国を憂う真摯な想いと、それを蝕む者たちへの激しい怒り、そして、どうにもならない現状への、底なしの無力感だった。

 そんな折、部下から南の建寧郡に関する、にわかには信じがたい噂がもたらされた。

「……都から左遷された皇女様が、民と共に畑を耕し、奇妙な赤い実を栽培している、だと?」

「はっ。噂によりますと、その姫君、一度は改革に大失敗し、民の前で土下座までしたとか。ですが、その後、民の知恵を取り入れ、見事に土地を蘇らせたと…」

 姜維は、ふんと興味もなさそうに鼻で息を吐いた。

(どうせ皇族の気まぐれな戯れたわむれごとだ。土下座とは、また手の込んだ芝居を打ったものよ。我ら現場の者が命を削っている間に、若い世代は安楽な土地でままごと遊びか)

 彼にとって、皇族とは腐敗した都の頂点に立つ存在。その血筋の者が、真に民を思うことなどあり得ない。それは、彼がこの数年間、骨身に沁みて感じてきた現実だった。

「だが……」彼は続けた。「万が一にも、その素人仕事が原因で領内に混乱が生じ、北伐軍の兵站に影響が出るようなことがあれば、見過ごせん」

 南中は、北伐を支える重要な兵站基地の一つだ。領地の安定は、軍の機能を維持する上で、国の中枢よりも、むしろ重要な問題だった。

「近々、建寧郡へ視察に行く。準備をしておけ」

 それは、職務上の必要性からくる、ただそれだけの決断だった。


 数日後、姜維は数名の屈強な部下を連れて漢中を発った。

 馬を駆り、建寧郡へと足を踏み入れた時、彼はわずかに目を見張った。土地の空気が、以前彼が報告書で知っていた「忘れられた土地」のそれとは、明らかに違っていた。道は掃き清められ、家々は粗末ながらも補修されている。そして、何よりも姜維の目を引いたのは、痩せた畑のあちこちに、力強く根を張る、見たこともない赤い実をつけた作物だった。人々の顔にはまだ貧しさの色は残るが、その目には、かつての報告書にあったような死んだような光ではなく、ささやかな、しかし確かな生活への意志が宿っていた。

(……ほう。戯言と断じるには、この土地はあまりに息をしている)

 彼の胸に、わずかな興味と、それ以上の警戒心が芽生えた。

 太守の館に到着した姜維は、出迎えた董和に威厳に満ちた声で名乗った。

「衛将軍、姜維である。太守代行殿に、北伐の現状報告と、今後の兵站協力について話がしたい」

 通された応接室で彼が待っていると、廊下から、ぱたぱたと慌ただしい、しかし力強い足音が聞こえてきた。

「董和! 大変よ! 実験農場の三番区画の苗が、また病かもしれないわ! 昨夜の雨が原因よ、きっと。すぐに隔離して、土壌の乾燥を…!」

 勢いよく応接室の扉を開けて飛び込んできたのは、一人の若い女性だった。

 姜維は、その姿を見て思わず絶句した。

 燃えるような美しい赤髪を、実用的なだけの無造作な髷に結い上げ、その整った顔や白い腕には泥が跳ねた跡がくっきりと残っている。服装は皇女が着るべき絹の漢服ではなく、どう見ても農作業用の動きやすい木綿の服。宮中の女たちが持つべき優雅さなど、そこには欠片も見当たらなかった。

 玉蘭もまた、部屋の中に立つ見知らぬ屈強な男たちの存在に気づき、言葉を途中で止めた。特に、その中心に立つ、全身からまるで冬の凍てついた空気のような、人を寄せ付けない威圧感を放つ男の姿に、彼女は思わず眉をひそめた。

「……どなた?」

 玉蘭が、土仕事の邪魔をされた不機嫌さを隠さずに問いかけた。

 姜維は彼女が噂の劉家の皇女であるとすぐに理解した。しかし、そのなりふり構わぬ姿と、自分をただの邪魔者として見るその挑戦的な瞳を見て、彼の心の奥底にあった宮中の人間への強い不信感が、確信へと変わった。

(やはり、ただの型破りな姫君か。民と泥にまみれることで、自らの特別さを演出し、自己満足に浸っているに過ぎん)

「衛将軍、姜維だ」

 彼は冷ややかに口を開いた。その声は、漢中の風のように乾いて冷たかった。

「噂に違わぬお働きぶりのようだな、皇女様。だが、貴女のその結構な『おままごと』が、我ら北伐軍の大事な兵站に影響を及ぼさぬよう、釘を刺しに来た」

 その言葉はあまりにも傲岸不遜で、相手が必死の思いで築き上げた成果を、真っ向から侮辱する響きを持っていた。

 瞬間。

 玉蘭の翠玉の瞳に、カッと怒りの炎が宿った。

 おままごと、だと?

 自分が流した血と汗と涙を。民と共に分かち合った喜びと苦しみを。この、現場も知りもしない男が、たった一言で。

「……あなたこそ、一体何様のつもりかしら?」

 玉蘭の声は低く、しかし怒りに震えていた。

「前線で槍を振り回すことしか能のない、ただの武人風情に、このわたくしが、わたくしたちが、この土地で何をしてきたのか、その何がわかるというの? 兵站を気にかけるのは結構ですけれど、その前に人に対する最低限の礼儀というものを学んでこられたらどうかしら」

「口の利き方に気をつけろ。俺は、貴女のその『改革ごっこ』が失敗した時の尻拭いをさせられる立場なのだ。当然の懸念を述べたまでだ」

「改革ごっこですって!? この無礼者っ! あなたのような、人を斬ることしか考えられない石頭に、土地を豊かにし、民の暮らしを創るという、この神聖な仕事の価値がわかってたまるものですか!」

「石頭……。面白いことを言う。少なくとも姫君のその泥遊びよりは、よほど漢室の復興に貢献していると自負しているが?」

「な、なんですって!?」

 バチバチと音を立てて火花が散るような、二人の視線が激しく交錯した。

「ひ、姫様! 姜維将軍! どうか、おやめくださいませ!」

 この世の終わりのような顔をした董和が、慌てて二人の間に割って入った。

「ひ、姫様! 姜維将軍! どうか、おやめくださいませ!」

 この世の終わりのような顔をした董和が、慌てて二人の間に割って入った。

 二人の出会いは、互いの第一印象が「石頭の朴念仁」と「泥まみれのままごと姫」という、まさに最悪の幕開けとなった。

 姜維は、この生意気な皇女の化けの皮を剥がしてやろうと、しばらくこの建寧に滞在することを決意する。

(だが…)と彼は心の中で付け加えた。(亡き丞相が命を賭して守ろうとした民が、確かにこの地で息をしている。その原因が、万が一にもこの姫だというなら、見極めねばなるまい。それもまた、俺の務めだ)

 まさか、この激しい反発こそが、互いの魂を強く引きつけ合う運命の序曲であることを、この時の二人は知る由もなかった。

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