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第5話:土の言葉

第5話:土の言葉

 建寧の太陽は、容赦がない。

 肌を焼くような日差しが、乾いた大地に照りつけていた。玉蘭は、額から流れ落ちる汗を手の甲で拭いながら、目の前の男の背中を睨みつけるように見つめていた。

 孟安。数日前まで自分に敵意を剥き出しにしていたこの無骨な若者が、今や彼女の「師」となっていた。

「違うと言ってるだろうが」

 孟安は、玉蘭が振るう鍬の軌道を、忌々しげに舌打ちしながら見ていた。

「腰が入ってねえ。手だけで振るから、土の上っ面を撫でてるだけになるんだ。もっと深く、こうだ」

 彼は玉蘭の手から乱暴に鍬を奪い取ると、自ら手本を見せた。鍛え上げられた背中の筋肉がしなやかに隆起し、鍬の刃がズブリと音を立てて深く大地に食い込む。それは、力任せの動きではない。体重を巧みに利用し、土の抵抗をいなす、長年の経験から生まれた無駄のない動きだった。

 玉蘭は、悔しさに唇を噛んだ。書物の上では、土壌の成分も、作物の育て方も、全て理解しているつもりだった。だが、この男の、言葉ではなく体で示す「土との対話」の前では、自分の知識がいかに空虚なものであったかを思い知らされる。

 あの日以来、孟安はぶっきらぼうながらも、毎日こうして玉蘭の畑に顔を出し、農作業の基礎を叩き込んでいた。彼のその行動に、他の若者たちも何事かと興味を示し、遠巻きに様子を窺うようになっていた。

 そんなある日、玉蘭は都から持ち出した古文書の中に、再び希望の糸口を見出した。それは、かの諸葛亮が遺したという、南中開発計画の一節だった。

その古文書の束をめくるうち、彼女は以前、建寧に来たばかりの頃に目にして意味が分からなかった、一枚の奇妙な図面のことも思い出した。それは、この南中のどこかにあるらしい、山一つを堰き止めるかのような、あまりに巨大な水利施設の設計図だった。今の彼女の知識では到底理解が及ばず、『これは一体…』と首を傾げたが、今は目の前の食糧問題の方が重要だ。彼女は思考を切り替え、農業に関する記述へと意識を集中させた。すると、ある一節が彼女の目に飛び込んできた。

『――南方の湿潤な土地に適応し、酸性の土壌をむしろ好む、古の作物あり。その果実は小さく酸味が強いが、栄養価は極めて高く、火を通すことでその味は甘美に変わるとも。古の時代には薬としても用いられたという。名は、“神の涙”。現在ではほとんど栽培されることのない、幻の植物』

 その記述に添えられていたのは、小さな赤い果実の色褪せた挿絵だった。

 玉蘭は、その見た目から“赤珠果せきしゅか”と呼ばれるあの酸っぱい実のことではないか、と思い至った。古文書に記された古の呼び名“神の涙”と、この地の通称が、彼女の中で一つに繋がったのだ。

 彼女は、その挿絵を手に、孟安や村の長老たちに尋ねて回った。

「ああ、あの酸っぱいだけの実か」孟安は眉をひそめた。「山に行けばいくらでも生えてるが、あんなもん、鳥も食わねえ代物だぜ」

「いえ、この書物には、調理法を工夫すれば素晴らしい味になると書かれています。それに、何より、この建寧の厳しい気候でも育つはずです」

 玉蘭は必死に説得した。だが、彼らの反応は渋い。一度失敗している彼女の言葉には、まだ重みがなかった。

 玉蘭は、再び一人で行動することを決意した。

 彼女は供も連れず、自ら山へと入った。数日間にわたる探索の末、ついに山奥の、日の当たる湿った崖地で、野生の“神の涙”の群生地を発見した。

「あった……! あったわ……!」

 玉蘭は喜びの声を上げ、夢中でその赤い実を摘み取った。一つ、恐る恐る口に含んでみる。ぎゅっと目をつぶってしまうほどの強烈な酸味。しかし、それは不快なものではなく、生命力に満ちた鮮烈な味だった。

(これを育て、調理法を工夫すれば、きっと……!)

 玉蘭はその植物を根を傷つけないように丁寧に掘り起こし、種を採取し、まるで宝物を運ぶかのように、館の実験農場へと持ち帰った。

 だが、このじゃじゃ馬な作物の栽培は、困難を極めた。

 野生のたくましさとは裏腹に、畑で育てようとすると苗は些細な気温の変化ですぐに弱ってしまう。建寧の夜の冷え込みに当てただけで、葉は黒く変色し枯れてしまった。ようやく花が咲いても、雨季の少ない日照時間ではなかなか実を結ばない。

「どうして…。書物には、こう書かれているのに…」

 彼女は、何度も失敗を繰り返し、頭を抱えていた。

 そんな彼女の姿を、館の隅で見ていた董和が、おずおずと声をかけた。

「姫様…。この土地の民は、新しい作物を植える時、まず土地の神様(社稷神)に、お伺いを立てます。そして、種を蒔く日取りも、月の満ち欠けを見て決めるのが習わし。そのような、古からの迷信と、お笑いになるやもしれませぬが…」

 玉蘭は、はっとした。自分は、土の酸性度や、日照時間といった、目に見える「理」ばかりを追い求め、この土地に根付く、人々の「心」や「信仰」を、全く見ていなかったことに気づかされたのだ。自分の知識と、この土地の現実との間にある、埋めがたい溝に、彼女は再び絶望しかけていた。

 そんな彼女の苦悩する姿を、黙って見ていた者がいた。

 あの、農業に詳しい老婆だった。

 ある日の夕暮れ、老婆は玉蘭の畑にやってくると、何も言わずに、弱った苗の周りに、平たい石をいくつか並べ始めた。そして、藁を束ねて、小さな日よけのようなものを作り始めた。

「……おばあさん?」

 玉蘭が訝しげに問いかけると、老婆は顔も上げずに、ぶっきらぼうに言った。

「……わしらがこの気難しい土地で瓜を育てる時はな、日中はこうやって藁で日よけを作ってやり、夜は石に昼間の熱を蓄えさせて、根元を冷やさんようにするもんじゃ」

 老婆は、玉蘭の顔を初めて見た。

「この赤い実も、おなごと同じだ。気難しくて、へそを曲げやすい。ただ放っておくだけじゃなく、こうやって大事に大事にしてやらんと、心を開いてはくれんよ」

 その、長年の経験から滲み出る知恵の言葉に、玉蘭ははっとした。

 自分の知識が、この土地固有の気候や特性を、そして何より作物そのものへの「愛情」を無視していたことに、気づかされたのだ。

「おばあさん……!」

 玉蘭は、初めて、自分の知識の限界を認め、民の経験に、心の底から頭を下げた。

「ありがとう……! 教えてくれて、本当に……ありがとう……!」

その涙は、悔しさや悲しさのものではない。感謝と、そしてようやく本当の意味で「学んだ」ことへの喜びに満ちていた。


その日から、畑の光景は一変した。

玉蘭は、老婆や、いつの間にか集まってきた村の女たちと共に、試行錯誤を重ねた。日中は藁の覆いをかけ、夜は石に蓄えた熱で苗を冷えから守る。その地道な作業に、最初は遠巻きに見ていた孟安たち男衆も、いつしか自ら鍬を手に取り、畑の開墾を手伝うようになっていた。

民の知恵と協力。その二つが合わさった時、かつて野生でしか育たなかった気難しい作物は、実験農場の片隅で、病に打ち克ち、力強く育ち始めた。小さな青い実が、少しずつ膨らみ始めている。


あと少し。あと少しで、この小さな希望の芽は、本物の果実となる。

誰もがそう信じ、収穫への期待に胸を膨らませていた。

だが、南中の厳しい自然は、彼らに最後の、そして最大の試練を与えようとしていた。建寧の空に、不吉な黒い雲が、ゆっくりと集まり始めていたのである。

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