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第40話:そして…

第40話:そして…

 三雄会談から二十年の歳月が流れた。

 大陸の地図は、血と野望によって、無残に塗り替えられていた。


 北の魏では、司馬一族がついに帝位を簒奪し、新たな王朝「晋」を打ち立てた。その覇道に対し、若き天才・鍾会は、単独で司馬氏に対して大規模な反乱を起こした。だが、天は彼に味方しなかった。その圧倒的な才気とは裏腹に、人望の薄かった彼の元からは将兵が次々と離反し、野望は夢と潰え、その消息は歴史の闇へと消えた……。


 そして西の蜀漢は、晋の猛攻の前に、ついに力尽きた。

 丞相・諸葛瞻は、父・諸葛亮と同じく、最後まで国に殉じ、壮絶な戦死を遂げた。皇帝・劉禅は晋に降伏し、今は遠く洛陽の地で、虜囚として、その穏やかすぎる余生を送っているという。

 東の呉もまた、内紛と晋の圧力の前に、風前の灯火となっていた。


 蜀漢滅亡の報が届いた日、建寧の空気は凍りついた。

 城壁の上から北の空を睨む姜維の拳は、血が滲むほど固く握りしめられている。故国が、かつての仲間たちが、異民族の軍靴に踏み躙られている。だが、彼は動けなかった。

 三雄会談の後、建寧の自治と交易路の平和は、晋王朝とも新たな協定を結ぶことで、かろうじて保たれていた。その最大の理由は、晋の将軍たちが「剣閣の悪夢」を忘れていなかったからだ。玉蘭が持つ「水禍の計」という切り札を恐れ、下手に大軍を動かせずにいた。

 今、姜維が「蜀将」として一兵でも動かせば、それは晋に「盟約違反」という最高の口実を与え、この楽土に大軍を差し向けることを正当化させてしまう。蜀への忠義と、建寧の民を守るという誓い。その板挟みで、彼の心は張り裂けそうだった。動けないことが、剣で斬られるよりも苦しかった。


 玉蘭もまた、父の降伏を知らせる書状を手に、静かに涙を流していた。

「父上……貴方もまた、最後の最後まで、民の血がこれ以上流れることを避けるために、愚君の仮面を被り続けたのですね。漢室の誇りよりも、民の命を選んだ。その苦渋の決断を、今ならわたくしは理解できます……」

父の代わりに皇女として殉じるべきという考え方もあるかもしれない。だが、彼女はもはや、ただの皇女ではない。この建寧に生きる、数十万の民の命を背負う、統治者なのだ。彼女は、自らが課した「天秤」としての役割を、ここで放棄することはできなかった。


 その年の冬。建寧には、珍しく大雪が降った。

 白一色に染まった世界の中、玉蘭は一人、慰霊碑の前に深く膝をついていた。彼女が犯した「水禍の計」によって失われた、蜀魏両国の兵士たちの魂を弔うために、自らの手で建立した碑だ。二十年という歳月は、彼女の罪の記憶を少しも薄れさせてはくれなかった。冷たい雪が、彼女の心を容赦なく苛む。

「......ごめんなさい...」

 その、か細い声は、白い息と共に冬の空へと消えていった。

 彼女の肩が、抑えきれない嗚咽で小さく震え始めた時、背後から、分厚い外套を羽織った姜維が現れる。その顔には、長年の風雪を物語る深い皺が刻まれていたが、眼光の鋭さは少しも衰えていない。

「......また、ここに来ていたのか」

 彼は、玉蘭の隣に静かに膝をつくと、持ってきた外套を、その震える肩にそっと掛けてやった。

「お前は、いつまで一人で背負い続けるつもりだ」

「......これは、わたくしが背負うべき罪です」

「違う」姜維は、静かに首を横に振った。「その罪は、俺のものでもある。俺がお前を守りきれなかったばかりに、お前は悪魔になるしかなかったのだから」

 彼は、雪に濡れる玉蘭の手を、自らの大きな手で強く、そして優しく包み込んだ。「だから、せめて、俺の前で泣いてはくれまいか」

 その言葉に、玉蘭は、彼の肩に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。


 蜀漢滅亡から、数ヶ月後。

 建寧に、二組の、予期せぬ来訪者があった。

 一組は、諸葛瞻の妻とその幼い息子・諸葛昭だった。彼女は、夫の戦死後、その遺言に従い、晋の追手を逃れ、やっとの思いでこの地に辿り着いたのだ。玉蘭は、かつての好敵手の遺児を、涙ながらに温かく迎え入れた。


 そして、もう一人は、建寧の城門の前に、たった二人で現れた。

 ボロボロの旅装束に身を包み、その顔には深い絶望と疲労を刻みつけながらも、その瞳の奥の輝きだけは失っていない男。そして、その男の腕に、大事そうに抱えられた、まだ五つにも満たない、幼い少女。

 男の名は、鍾会。

(俺は全てを失った。覇道も、誇りも……。だが、最後に残ったこの娘の未来を考えた時、俺の脳裏に浮かんだのは、勝利者の顔ではなかった。泥にまみれ、民と共に笑い、たった一つの小さな楽土を、命がけで守り抜いた、あの赤髪の女の顔だった。……そうだ。真の強さとは、覇道ではなく、守るべきものを持つことだったのかもしれん……)


 彼は、玉蘭と姜維の前に引き出されると、その膝を折り、深く、深く、泥にまみれた額を床に擦り付けた。

「……赤髪の皇女よ。いや、建寧の太陽よ」

 その声は、かつての傲慢さが嘘のように、か細く震えていた。

「司馬氏には、力で敗れた。天は、俺ではなく、彼らを選んだ。だがな、俺の魂が、俺の覇道が、真にひれ伏したのは、武力でも権謀術数でもない。君が、この辺境の地で、たった一人で創り出した、あの温かい光の前だけだ。俺は、その価値に、最後まで気づけなかった愚か者だ」

 彼は、腕の中の娘を、そっと前に差し出した。

「反乱の際、妻は…俺をかばい、命を落とした。もはや、俺には何も残されていない。覇道も、誇りも。ただ、この娘の未来だけだ。…頼む。この敗軍の将と、その娘を、君の国の、ただの一人の民として、受け入れてはもらえまいか」

 その、あまりにも意外な申し出に、玉蘭と、隣にいた姜維は、言葉を失った。


 玉蘭は、静かに立ち上がると、震える少女の前に膝をつき、その頬を優しく撫でた。

「……お受けいたします。この建寧は、過去も、身分も、国も問いません。ただ、明日を信じて生きようとする者全てを、受け入れる場所ですから」


 やがて、季節は巡り、建寧の赤珠果の畑には、新しい生命が芽吹いていた。

 三人の子供たちが、楽しげに畑の中を駆け回っている。玉蘭と姜維の息子・劉略。諸葛瞻の息子・諸葛昭。そして、鍾会の娘・鍾琰しょうえん

「略! そっちじゃないわ! 猪の罠は、あっちの斜面にもっと深く仕掛けるべきよ!」

 勝ち気な瞳をした鍾琰が、泥だらけの劉略に檄を飛ばす。

「いや、琰。僕の計算によれば、風向きと獣道を考えると、こちらの方が確実だ。それに、あの斜面は地盤が少し緩い」

 諸葛昭が、父譲りの羽扇を小さく揺らしながら、冷静に地図を指し示す。

「よし、わかった! 昭の言う通り、こっちにしよう! 琰、手伝ってくれ!」

 劉略が、太陽のような笑顔で二人に呼びかける。

 その光景を、少し離れた場所から、三人の親たちが見守っていた。

 玉蘭と姜維は、親たちの因縁を超えて育つ子供たちの姿に、新しい時代の希望を見て、穏やかに微笑み合っている。

 そして、農夫の服に身を包んだ鍾会は、自分の娘が、親友たちと共に、自分の果たせなかった夢の続きを、別の形で生きているその姿を、どこか寂しげに、しかし、紛れもなく穏やかな目で見守っていた。

 建寧の太陽は、寄り添う月と共に、この後も、この地を、そして大陸を、温かい光で照らし続けるだろう。


 そして、いつの日か。

 玉蘭と姜維の子が、鍾会を師と仰ぎ、その娘とともに、親友となった諸葛瞻の子を軍師として、旧蜀領を回復し、天下に覇を唱えるのであるが──それはまた、別の物語である。


おわり

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