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第4話:泥中の誓い

第4話:泥中の誓い

 絶望には、色も音も匂いもない。

 玉蘭は、太守の館の、かび臭い自室に閉じこもっていた。窓は木の板で固く閉ざされ、昼なお暗い部屋の中、彼女はまるで石像のように、ただ一点を見つめていた。床には、手つかずのまま冷え切った食事の皿が虚しく置かれている。あれから、三日が過ぎていた。

 孟安の、憎悪に満ちた声が耳から離れない。

『これが、お前の言っていた「改革」か!』

 民たちの、裏切られたという怒りと絶望に満ちた瞳が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。

 自分の知識は、万能ではなかった。書物から得ただけの薄っぺらい知恵は、この土地の圧倒的な自然の前では、赤子の戯言にも等しかった。その傲慢さが、民の最後の希望であった種籾を奪い、彼らを飢えの淵へと突き落とした。

(こんな場所、もう一刻だっていたくない……)

 その考えが、毒のように彼女の心を蝕んでいた。都へ帰る? 馬鹿なことを。帰ったところで、わたくしを待っているのは政敵の嘲笑と、父の失望だけ。わかってはいる。わかってはいるけれど、それでも、この冷たく、湿った、希望のない土地から逃げ出したかった。もう、あの憎しみに満ちた視線に晒されるのは、耐えられない。

 彼女は、そんな非論理的な衝動に突き動かされるように、よろよろと立ち上がった。荷物をまとめる。その先に何もないとわかっていながら、そうせずにはいられなかった。

 その時だった。

 固く閉ざされた扉の向こうから、微かな、しかし確かに人の声が聞こえてきた。それは、この館の前を通り過ぎる村人たちの会話だった。

「……もう、終わりだ。蓄えも、もう幾らも残ってねえ」

「ああ、冬を越す前に、赤子から先に飢え死にしていくんだろうな……」

「都の姫様は、とっとと逃げ帰る算段でもしてる頃だろうよ。俺たちのことなんざ、どうでもいいのさ」

 その絶望的な、しかしどこか諦めに満ちた声が、玉蘭の胸を鋭く貫いた。

 逃げようとしている? わたくしが?

 この地獄を創り出した張本人が、全てを投げ出して?

 それは、漢の皇族として許されることか? いや、違う。皇族であるとか、女であるとか、そんなことは関係ない。一人の人間として、それは断じて許されることではない。

 自分が蒔いた種だ。ならば、たとえこの身が朽ち果てようとも、刈り取らねばならない。

 彼女の中で、何かがぷつりと切れた。それは、皇女としての最後の、そして最も硬い殻であったプライドが砕け散る音だった。

 翌朝。

 玉蘭は、やつれきった姿で、再び村の広場に現れた。三日ぶりに見る太陽の光が、目に痛い。

 彼女のその姿を認めると、民たちは侮蔑と警戒の視線を投げかけた。「まだいたのか」「何を今さら」という囁きが、冷たい風に乗って彼女の耳に届く。

 だが、玉蘭はもう、その視線を恐れなかった。

 彼女は、民の中心に立つ村の長老、そして憎悪の視線を隠そうともしない孟安の前まで、おぼつかない足取りで進み出た。

 そして。

 集まった全ての民が息を飲む中で、彼女は、その泥で汚れた地面に、何の躊躇もなく両膝をついた。

 そして、生まれてからただの一度も誰にも下げたことのないその気高い額を、硬く冷たい大地に、ゆっくりと、しかし深く擦り付けた。

「……申し訳、ありませんでした」

 その声は、か細く掠れていた。だが、広場の隅々にまで響き渡るほど、静かで、そして重かった。

「わたくしの…わたくしの未熟さと、愚かな傲慢さが、皆様を、皆様の未来を、危険に晒しました。この罪は、万死に値いたします」

 彼女は顔を上げないまま、続けた。

「どんな罰でもお受けいたします。この場で石を投げつけられても、構いません。ですが……ですが、どうか、もう一度だけ……わたくしに、この地で償う機会をください」

 玉蘭は、ゆっくりと顔を上げた。その頬は涙で濡れ、額には泥がついていた。もはやそこに、気位の高い皇女の面影はない。ただ、自らの過ちを認め、それでもなお未来を諦めきれない、一人の必死な人間の姿があった。

 彼女は、民の中でも特に農業に詳しく、そして今回の件で最も批判的だった一人の老婆の前に、膝をついたまま進み出た。

「わたくしは、無知です」

 玉蘭は、その皺だらけの手を見つめながら言った。

「書物の上に書かれた知識が全てだと思っておりました。ですが、違いました。どうか、この土地で生きる本当の知恵を、わたくしに教えてはいただけませんか。皆様が、その手で、その体で、何十年もかけて培ってきた、本物の知恵を」

 広場が、どよめきに包まれた。

 天上の存在であるはずの皇女が、神の血を引くと囁かれる姫が、自分たちのような泥まみれの民草に、教えを乞うている。その光景は、彼らが今まで生きてきた世界の常識を、根底から覆すものだった。

 孟安は、言葉を失い、ただ呆然と彼女の姿を見つめていた。その瞳から、あれほど燃え盛っていた憎悪の色が、わずかに揺らいでいた。

 教えを乞われた老婆は、しばらくの間、何も言わずに玉蘭の顔をじっと見つめていた。その老いた瞳は、彼女の言葉が本物か、それともまた新たな芝居かを見極めようとしているかのようだった。

 やがて、老婆は深いため息を一つだけつくと、吐き捨てるように言った。

「……姫様。畑仕事はな、頭でやるもんじゃねえ。ましてや、口でやるもんでもねえ。土と、空と、そして自分の手で話をするもんだ」

 それは、突き放すような、厳しい言葉だった。

「それが、どういうことか。あんた自身のその体でわかるまで、わしらはあんたに、何も教えることはできねえよ」

 民たちは、その言葉を聞いて、再び彼女に背を向け、それぞれの仕事へと戻っていった。まだ、誰も彼女を許してはいない。

 だが、玉蘭はその言葉の中に、一筋の光を見出していた。

 彼女は、老婆に再び深く頭を下げると、静かに立ち上がった。

 そして、あの日、彼女の希望とプライドが打ち砕かれた、あの泥まみれの実験畑へと、一人向かった。

 彼女は、鍬を手に取った。

 収穫のためではない。何かを証明するためでもない。

 ただ、老婆の言う「土と話をする」ためだけに。

 雨の日も、風の強い日も、灼けつくような日差しの下でも、彼女はただ黙々と、来る日も来る日も、土を耕し続けた。その手は豆が潰れるのを繰り返し、やがて硬く、ごつごつとした農夫のそれに変わっていった。

 その姿を、孟安は毎日、遠くから見ていた。彼の表情から、嘲笑は完全に消え去っていた。その瞳に宿るのは、侮蔑ではなく、理解しがたいものを見るような困惑だった。

 董和は、毎日彼女のために、そっと水差しと清潔な布を、畑の隅に置くようになった。

 そして、そんな日々が一月ほど過ぎた、ある日の午後。

 いつものように一人で畑を耕す玉蘭の前に、大きな影が差した。

 孟安だった。

 彼は、何も言わずに、一本の錆びついた、しかし手入れの行き届いた鍬を、彼女の前に無言で突き出した。

「……ちっ。見てられねえ」

 彼は、そっぽを向きながら、ぶっきらぼうに言った。

「貸してやらあ。そんな細腕じゃ、日が暮れても埒があかねえ。それに……鍬の使い方が、なってねえんだよ」

 それは、建寧の凍てついた大地と、人々の心が、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、溶け始めた瞬間だった。

 泥の中に咲いた、一輪の謝罪の花。それは、まだ小さくか弱いものだったが、この希望なき土地に、確かな根を張り始めたのだった。

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