第39話:夜空の誓い
第39話:夜空の誓い
会談から四年。
蜀と魏による、見えざる経済戦争は、建寧の光と影を、ますます色濃くしていた。
玉蘭は、為政者として、その全ての重圧を、ただ一人で、その華奢な肩に背負い続けていた。蜀の金融支配に対抗するため、独自の通貨制度の確立を模索し、魏の技術独占を打ち破るため、新たな鉱脈の探索を指示する。眠る時間さえ惜しんで、彼女は来る日も来る日も、膨大な報告書と格闘した。
だが、その強靭な精神を支えていた糸は、ある日、ぷつりと音を立てて切れた。
彼女は、激務と心労がたたり、高熱を出して、倒れたのだ。
数日間、彼女は、生死の境を彷徨った。
その間、彼女の枕元を、片時も離れなかった者がいた。姜維だった。
彼は、交易路防衛軍・総司令官としての職務を腹心に任せ、ただひたすらに、彼女の看病に専念した。
彼は、侍女たちを下がらせ、自らの手で、彼女の汗を拭い、唇を湿らせた。そして、薬草の知識を総動員し、不器用な手つきで薬湯を煎じ続けた。かつて、蜀漢の北伐軍を率いた衛将軍の、その武骨な手が、今は、ただ一人の女を救うためだけに懸命に動いていた。
それは、彼にとっての、贖罪の儀式でもあった。
彼女が、ここまで追い詰められたのは、自分のせいだ。自分が、彼女の孤独を、本当の意味で、理解してやれなかったからだ。先の対立で、彼女の心を深く傷つけてしまった、あの夜の記憶。その、どうしようもない後悔の念が、彼を突き動かしていた。
数日後、玉蘭は、ようやく意識を取り戻した。
最初に目に映ったのは、自分の手を握りしめたまま、枕元でうたた寝をしている、姜維の姿だった。その、疲れ切った横顔。無精髭の生えた顎。眉間に刻まれた、深い皺。
彼女は、そっと、その皺に、指で触れた。
「......あなた」
その、か細い声に、姜維は、はっと目を覚ました。
「玉蘭! 気がついたか!」
「ごめんなさい...」玉蘭の目から、一筋の涙がこぼれた。「わたくし、また、あなたに、心配を…苦労を、かけてしまったわね...」
「馬鹿を言え」
姜維は、彼女の手を、自らの頬に押し当てた。
「俺は、何もできなかった。お前が、一人で、これほどの重圧と戦っている間、俺は、ただ見ていることしか…」
「いいえ」玉蘭は、静かに首を横に振った。「あなたは、いつも、いてくれたわ。わたくしが、どんなに間違っても、どんなに汚れても、ただ、黙って、そこに。それだけで、わたくしは、どれほど救われたか」
二人は、しばらく、何も言わずに、ただ互いを見つめ合った。
やがて、姜維が、ぽつりと言った。
「俺は、お前にとって、太陽のような存在には、なれん。俺には、国を治める知略も、人を惹きつける華やかさもない。ただの、不器用な武人だ」
彼は、自嘲するように、そう言った。
「だが、それでも、お前が、建寧の太陽として輝き続けるというのなら。俺は、その光に寄り添う月でいい。いや、月ですらない。ただ、お前が心置きなく燃え盛ることができるように、その全てを受け止める、夜の空であれば、それでいい」
それは、彼の、不器用な、しかし、何よりも真実な、魂の告白だった。
玉蘭は、その言葉を聞いて、静かに、そして美しく、微笑んだ。
「ええ。知っているわ。あなたが、わたくしの、唯一の空であることを」
二人は、互いの弱さも、不完全さも、そして罪も、全てを受け入れ、共に歩むことを、改めて誓い合った。
彼らの愛は、もはや、若さゆえの情熱的な炎ではない。
どんな嵐にも、どんな闇にも、決して揺らぐことのない、深く、静かな、大樹のようなものへと、成長していた。
この夜を境に、二人は、本当の意味で、一つの魂となったのだった。