第38話:一兵卒の贖罪
第38話:一兵卒の贖罪
会談から三年。
建寧の繁栄は、その裏側で、静かに、しかし確実に、二つの大国による経済的な侵略に蝕まれ始めていた。
蜀は、公式な銭荘を設立し、建寧の商人たちを巧みに借金漬けにすることで、その経済的な首根っこを押さえ始めていた。一方、魏は、建寧の産業に不可欠な鉄の供給を独占し、その価格をじわじわと吊り上げることで、見えざる支配を強めていた。
その結果、街には「蜀派」と「魏派」の商人が生まれ、互いの利権を巡る対立が、日に日に深刻化していた。その対立を、まるで水面下で糸を引くかのように、両国から来た素性の知れぬ者たちが巧みに煽っていることを、玉蘭の情報網は掴んでいた。
その日、市場の中心で、ついに計画されたかのように不満が爆発した。
蜀の銭荘から多額の融資を受けて絹を仕入れた商人が、魏との鉄取引で儲ける商人に対し、「お前たちが魏に媚びるせいで、俺たちの商売が上がったりだ!」と、些細なきっかけで不自然なほど大声で怒鳴りつけたのをきっかけに、大規模な乱闘へと発展したのだ。双方の仲間たちが加勢し、市場はあっという間に無法地帯と化した。
建寧警備隊が駆けつけるが、多勢に無勢で、なかなか騒ぎを鎮圧できない。
その時だった。
群衆の中から、一人の大柄な男が、雄叫びを上げて飛び出してきた。
孟安だった。
彼は、かつて都から来た役人とのいざこざの責任を取る形で、一度は警備隊長の職を解かれていたが、その後も一兵卒として、誰よりも黙々と、そして献身的に、この街の警備の任にあたっていた。かつての仲間たちからの冷たい視線にも、彼は甘んじて耐え続けていた。
「てめえら、いい加減にしやがれ! ここが誰の土地だか、忘れたのか!」
彼は、乱闘の中心にいた両国の商人の頭目たちを、その規格外の腕力でいとも簡単にねじ伏せた。その鬼神の如き姿に、騒いでいた者たちも、一瞬にして静まり返る。
だが、混乱の最中、魏の商人側の一人が、逆上して隠し持っていた短剣を抜き、孟安の背後から襲いかかった。
「危ない!」
叫び声と同時に、孟安をかばうように、一人の老婆がその前に飛び出した。かつて、玉蘭に土の知恵を教え、そして経済混乱の際には、彼女に絶望を突きつけた、あの老婆だった。
短剣は、老婆の肩を、深く抉った。
「ばあさんッ!」
孟安の悲痛な叫びが響き渡る。
自らの過ちで、またしても、守るべき民を傷つけてしまった。その事実に、孟安は我を忘れ、短剣を抜いた商人に殴りかかろうとした。
「――やめなさい、孟安!」
その場を制したのは、駆けつけた玉蘭の、凛とした声だった。彼女の瞳は、乱闘の中心にいる商人たちではなく、その背後で扇動していた見慣れぬ男たちの顔を冷静に見据えていた。
「あなたの気持ちはわかる。でも、ここであなたが怒りに任せて剣を抜けば、それこそ、あの二人の英雄の思う壺よ。これは、ただの喧嘩ではない。我々に統治能力がないと断じ、軍を差し向ける口実を作るための、巧妙な『挑発』なのだから」
彼女は、負傷した老婆に駆け寄ると、自らの衣を裂いて、手際よく応急手当を施した。
その夜、館の一室で、玉蘭は、意識を取り戻した老婆の手を握っていた。
「…姫様」老婆は、か細い声で言った。「わしは、あんたを…孟安を、信じとるよ。この村は、もうあんたたちのもんだ。都の奴らの好きには、させん」
その言葉が、民の総意だった。
孟安の、体を張った行動と、玉蘭の毅然とした対応は、この街に住む者たちの心を、再び一つにしたのだ。
翌日、玉蘭は、乱闘騒ぎに関わった両国の商人たちを、全員、国外追放処分とした。
そして、孟安を、再び警備隊長の職に復帰させた。
「あなたの罪が、消えたわけではないわ」玉蘭は、彼に告げた。「ですが、あなたは、その罪を、自らの行動で、償おうとした。その忠義に、わたくしは報いたい」
孟安は、涙ながらに、その命令を受け入れた。
建寧は、この事件をきっかけに、外部からの揺さぶりに屈しない、より強い結束を手に入れた。
だが、玉蘭の心は、晴れなかった。
これは、二人の英雄からの、最後通牒だ。次に同じことがあれば、彼らは、本当に軍を動かすだろう。その予感が、彼女の心を、重く支配していた。