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第36話:甘い毒、見えざる揺さぶり

第36話:甘い毒、見えざる揺さぶり

 会談から二年。

 建寧は、さらなる発展を遂げていた。だが、その繁栄は、二人の英雄からの、見えざる侵略と常に隣り合わせだった。

 その年の春、蜀漢の都・成都から、諸葛瞻の名代として、大規模な「文化使節団」が建寧を訪れた。彼らがもたらしたのは、都で最高の腕を持つ楽師たちと、当代きっての碩学たちだった。

 館の広間では連日優美な琴の音が響き渡り、若者たちを集めては儒教の経典や最新の天文学についての講義が開かれた。建寧の若者たちは、生まれて初めて触れるその洗練された文化の香りに、目を輝かせて酔いしれた。

「すごいな、都というのは...」

「それに比べて、俺たちの村は...」

 そんな声が、少しずつ、しかし確実に、若者たちの間に広まっていく。

 玉蘭と姜維は、その様子を複雑な思いで見つめていた。

「見事なものね」玉蘭は、自嘲気味に呟いた。「武器を使わず、兵を送らず、ただ文化と憧れだけで人の心を支配しようとするとは。さすがは、丞相閣下だわ」

「これは、毒だ」姜維は、厳しい声で言った。「彼らは、建寧の若者たちから、この土地への誇りを奪おうとしている。このままでは、我々が築き上げたものが、内側から根こそぎ腐ってしまうぞ」

 蜀からの使節団が帰ったかと思うと、今度は北から魏の鍾会が、自ら大商隊を率いて建寧にやってきた。彼の名目は、「最新技術の視察と供与」だった。

 彼がもたらしたのは、魏で開発されたばかりの画期的な鉄製の農具と、驚くほど切れ味の良い鋼の剣だった。建寧の農夫たちは、その農具を使うことで今までの半分の労力で倍の土地を耕せることに狂喜した。警備隊の兵士たちは、その鋼の剣の圧倒的な性能に感嘆の声を上げた。

 鍾会は、民衆の前でにこやかに言った。

「我が主君は、この自由な都市・建寧の発展を心から願っておられる。これは、その友好の証だ。今後も、必要なものがあれば、何でも支援を約束しよう」

 民衆からは、彼を称える万雷の拍手が送られた。


 その夜、統治者の館で、玉蘭と姜維は、初めて激しく対立した。

「追い返すべきだ!」姜維は、拳を机に叩きつけた。「諸葛瞻も、鍾会も、やっていることは同じだ! 彼らは、文化や技術という甘い毒で、この建寧の『魂』を侵食し、骨抜きにしようとしている! このままでは、若者たちは自らの故郷への誇りを失い、ただ大国の富と文化にぶら下がるだけの、中身のない人間になってしまう! それこそが奴らの狙いだ!」

「無理よ!」玉蘭も、声を荒らげた。「彼らの『善意』を今、我々が拒絶すれば、どうなる? それは、三雄会談の盟約を我々の方から破棄したと見なされるわ。蜀と魏に、軍事介入の絶好の口実を与えてしまうことになる!」

「では、どうしろと!? このまま、甘い毒を飲み続けろと言うのか!」

「ええ、そうよ!」玉蘭の瞳が、冷徹な為政者の光を宿した。「ならば、その毒を飲み干した上で、我々自身の薬を創り出すのです! 彼らの善意は、ありがたく頂戴するわ。そして、その裏で彼らの技術を学び、盗み、いずれは我々自身の手で、それを超えるものを創り出すのよ。そのためには、今は耐えなければならないの。たとえ、それがどれほどの屈辱であったとしても!」

 それは、あまりに現実的で、そしてあまりに過酷な道だった。

 姜維は、何も言い返せなかった。為政者としての彼女の判断は正しい。だが、一人の武人として、誇りを重んじる男として、そのやり方を彼はどうしても受け入れることができなかった。彼の目には、彼女が、かつて自分が最も嫌悪した、都の権力者たちと同じ「策略」に手を染めていくように見えてしまったのだ。

 二人の間には、統治者として、そして愛し合う男女として、初めて深刻な意見の対立が生まれた。

 その夜、二人は別々の部屋で眠りについた。

 建寧の空に浮かぶ月は美しかったが、その光は、二人の心を温めることはできなかった。

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