第35話:硝子細工の平和
第35話:硝子細工の平和
三雄会談から、一年。
かつて「忘れられた土地」とまで言われた建寧は、まるで長い冬眠から覚めた龍のように、その息吹を取り戻していた。「赤珠果の道」は、蜀と魏の間に血ではなく富と情報を運ぶ新たな大動脈となり、その結節点であるこの街は、日ごとにその貌を変えていた。
だが、その繁栄は、新たな火種を生んでいた。この地の統治権と、莫大な富を生む交易路の利権を巡り、玉蘭と、中央政府を代表する丞相・諸葛瞻との間で、見えない綱引きが始まっていたのだ。
石と泥ばかりだった道には硬い石畳が敷かれ始め、みすぼらしい木組みの家々の間には、蜀の様式である優美な反りの屋根と、魏の様式である質実剛健な煉瓦造りが、どこかぎこちなく、しかし力強く共存する、奇妙で美しい街並みが生まれつつあった。
市場を歩けば、肌の色も、言葉も、纏う衣服も違う人々が、互いに身振り手振りを交え、あるいは拙い共通語で活気のある商いを行っている。蜀の絹織物の鮮やかな色彩の隣で、魏の精緻な鉄器が鈍い光を放つ。南中の珍しい香辛料のむせるような香りと、北から運ばれてきた乳製品の濃厚な匂いが混じり合う。それは、玉蘭が夢に見た光景、そのものだった。
「見てみろよ、姫様。大したもんだ」
孟安改め、建寧警備隊の隊長が、得意げに胸を張った。彼の部下たちは、蜀兵や魏兵の崩れではない、建寧の若者たちで構成された、この街独自の治安部隊だ。彼らは、自らの故郷を守るという誇りを胸に、生き生きと街を巡回している。
「ええ、本当に。これも、あなたたちのおかげよ」
玉蘭は、心からの笑みを浮かべた。隣に立つ姜維もまた、その光景に目を細めている。二人は、まだ正式な夫婦ではない。皇女と、彼女に仕える将軍。その越えがたい身分の壁は、依然として存在していた。だが、二人の心は、誰よりも深く、固く結びついていた。建寧の統治者として多忙な日々を送る玉蘭にとって、その傍らで静かに彼女を支え、守り続ける姜維の存在が、何よりの心の支えだった。こうして時折、共に市井を歩くのが、彼らにとってかけがえのない時間となっていた。
この硝子細工のような、儚くも美しい平和。永遠に続けば良いと、彼女は願った。
だが、最初の亀裂は、諸葛瞻が送り込んできた監視役によって、予期せぬ形で静かにもたらされた。
その日、市場の中心で、小さな騒ぎが起きていた。
蜀から派遣されてきた若い監察官の一人が、南中の民である露天商の老婆を、甲高い声で詰問していたのだ。
「無礼者! この成都の法を知らぬのか! 許可なく、このような不衛生な場所で食品を売ることは、固く禁じられている! 速やかに撤去せよ!」
老婆は、何を言われているのかわからず、ただおろおろと怯えるばかり。周囲には、物珍しげに、あるいは不快げに、人々が輪を作り始めていた。
「お待ちください、役人殿」
玉蘭は、静かにその輪の中へと入っていった。
「ここは、成都ではございません。この建寧には、この土地の法と、慣習がございます」
「これは、玉蘭様」監察官は玉蘭を認めて一礼はしたものの、その態度は尊大だった。「しかし、たとえ交易路の管理を任されているとはいえ、ここは厳然たる漢室の土地。丞相閣下は、この地の発展と、その莫大な利益を、深く注視されております。無法な蛮族の習わしを、いつまでも放置しておくわけには参りません」
彼の言葉には、建寧の民を「蛮族」と見下す、隠しようのない侮蔑がこもっていた。
その言葉に、周囲の建寧の民の顔にも険しい色が浮かんだ。一触即発の、不穏な空気が流れる。
「役人殿のおっしゃることも、一理ありますわ」
玉蘭は、怒りを完璧な笑みの下に隠し、穏やかな声で言った。
「衛生管理は、都市の発展に不可欠。ですが、彼女たちにも生活がある。法を一方的に押し付けるのではなく、まずは我々が新しい商いの形を教え、導くのが筋道というものでしょう」
彼女は、老婆に向き直ると、その皺だらけの手を優しく取った。
「おばあさん。驚かせてごめんなさいね。大丈夫よ。後で館へいらっしゃい。もっと良い場所と、もっと良い売り方を、一緒に考えてさしあげますから」
その場は、彼女の機転によって収まった。
だが、その夜。館の執務室で、玉蘭と姜維は重い沈黙の中にいた。
「見たか、玉蘭」姜維が、低い声で言った。「あれが、都のやり方だ。彼らは、我々を、建寧を、対等な相手とは見ていない。ただ、支配し、管理すべき対象としか」
「わかっているわ」玉蘭は、深いため息をついた。「これは、始まりに過ぎない。これから、もっと多くの、文化と価値観の衝突が起こるでしょう」
「ならば、なぜ、あの役人を追い返さなかった。ここは、我々の土地だ」
「それをすれば、丞相に絶好の口実を与えることになるわ。『建寧は、未だに法を解さぬ蛮地である故、より強力な統治が必要である』とね。今は、耐える時よ、あなた」
彼女の言葉は、どこまでも冷静な為政者のそれだった。
姜維は、何も言い返せなかった。彼女の言うことが、正しいとわかっていたからだ。だが、彼の胸にはどうしようもない焦燥感が渦巻いていた。
その夜、二人は、それぞれの胸に同じ不安の影を抱きながら、眠れぬ夜を過ごすのだった。