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第34話:英雄の仮面、水底の盟約

第34話:英雄の仮面、水底の盟約

 三日三晩に及んだ三雄会談は、その最終局面を迎えていた。

 古城の一室。円卓の上に広げられた停戦協定書に、三者の視線が注がれる。署名を行うのは、蜀漢を代表して丞相・諸葛瞻、そして魏を代表して、本国からの全権委任を取り付けた鍾会だ。


 だが、その協定書には、大陸の歴史上、誰も見たことのない、一つの奇妙な条項が付帯されていた。

 『――本協定の円滑な履行を保証するため、この交易路の管理・監督は、蜀漢皇女・劉玉蘭にその全権を委ねる。万が一、いずれかの国が本協定に違反した場合、彼女は、本協定に定められた対抗措置を発動する権限を有する』

 玉蘭は、署名者ではない。だが、彼女は、この協定の最も重要な「立会人」であり、その存在そのものが、この硝子細工の平和を支える「保証人」となっていた。


 その調印を翌日に控えた、最後の夜。政治的な決着とは別に、一人の女を巡る、二人の男の戦いは、まだ終わっていなかった。

 諸葛瞻と鍾会は、まるで申し合わせたかのように、玉蘭を城の月明かりが差し込む、静かなテラスへと呼び出した。


「……見事な手腕だった、玉蘭様」

 先に口を開いたのは、諸葛瞻だった。その声には、為政者としての純粋な賞賛と、そして、どこか寂しげな響きがあった。

「改めて、そなたに問おう。都へ来るがいい。私の隣で、この国を、そしてこの大陸を、共に変えてはくれまいか」


「待て」

 冷たい声で、鍾会が割って入る。

「玉蘭。俺の元へ来い。俺はいずれ、この魏で、そして大陸で、最も高い場所へ昇る男だ。その時、俺の隣に必要なのは、凡庸な女ではない。この俺の魂を理解できる、唯一無二の君なのだ。俺と共に、この大陸の覇道を歩むと、今ここで誓ってくれ」


 二人の英雄からの、熱烈な求愛。

 それは、彼らが差し出すことのできる、最高の地位と、未来の約束だった。

 玉蘭は、しばらく何も言わずに、ただ夜空に浮かぶ満月を見上げていた。やがて、彼女はゆっくりと、二人の英雄へとその美しい顔を向けた。

「お二人からの、そのあまりにも光栄なお申し出、心より、感謝申し上げます」

 彼女は、深く、そして優雅に頭を下げた。そして、顔を上げると、きっぱりと、しかしどこまでも穏やかな微笑みを浮かべて言った。

「ですが、そのどちらのお申し出も、お受けすることは、できません」


 その言葉に、二人の天才の瞳が、鋭く光った。

「……なぜだ?」

「理由を、聞かせてもらおうか」

 玉蘭は、そんな彼らに、優しく、しかし揺るぎない視線を向けた。

「お二方が見ているのは、大陸の未来。ですが、わたくしが見ているのは、もっとずっと小さいもの。わたくしは、誰かの隣で輝く月ではなく、自らの力で光を放つ太陽でありたいのです」

 彼女は、回廊の影で、ただ静かに自分を見守る、姜維へと、その慈しみに満ちた視線を向けた。

「わたくしは、この人と共に、建寧へ帰ります。この道を守り、民の暮らしを守るために。わたくしが選ぶのは、権力でも、理想の実現でもございません。ただ、ささやかで、温かくて、そしてかけがえのない、このわたくし自身の幸福です」


 その瞬間、二人の絶対的な天才は、悟った。

 一人の男としては、負けたのだ、と。この朴念仁の忠臣に。

 だが、彼らは、為政者だ。感傷で、国事を誤るほど、愚かではない。「わたくしは、この人と共に、建寧へ帰ります。この道を守り、民の暮らしを守るために。わたくしが選ぶのは、権力でも、理想の実現でもございません。ただ、ささやかで、温かくて、そしてかけがえのない、このわたくし自身の幸福です」

 その瞬間、二人の絶対的な天才は、悟った。

 一人の男としては、負けたのだ、と。この朴念仁の忠臣に。

 だが、彼らは、為政者だ。感傷で、国事を誤るほど、愚かではない。

 諸葛瞻は、一瞬だけ目を閉じ、そして、全てのカードを切ることを決意した。

「……よかろう、玉蘭様。その覚悟、見事だ」

 彼は、鍾会に向き直った。

「鍾会殿。我が国としても、この停戦協定には、最大限の誠意を示したい。つきましては、我が国が誇る最高の将軍であり、北の国境最大の脅威であった、衛将軍・姜維を、この任から解くことを提案する」

「何!?」鍾会が、初めて驚きの声を上げた。

「彼の新たな任地は、建寧とする。役職は、<赤珠果の道・防衛司令官>。彼の任務は、もはや魏を討つことではない。この道の平和を、生涯をかけて守ることだ。これ以上の『人質』と『誠意』の証があろうか?」


 その言葉に、最も衝撃を受けたのは、玉蘭と、そして姜維本人だった。

 諸葛瞻は、悪魔のような笑みを浮かべて続けた。

「無論、これは皇帝陛下と、大将軍・費禕様の裁可を得て、私が正式に発令する。費禕様は、常々、姜維の北伐を憂いておられた。彼が北の最前線から離れることを、お喜びこそすれ、反対なさるはずがない。これぞ、三方一両得の妙手、というわけだ」


 彼は、この一手で、全てを手に入れようとしていた。魏に対しては、最大の譲歩と誠意を示す。蜀の、費禕にとって経済上の目の上のたんこぶであった姜維を北伐から遠ざける。

そして、玉蘭と姜維には、直接的に抗いがたい「恩」を売りつけ、自らの影響下に置く。

 鍾会は、しばらく黙考した後、大きく息を吐いて笑った。

「……参ったな。完敗だ。よかろう、諸葛瞻。その提案、飲もう」

 彼は、玉蘭に向き直った。

「姫君。貴女のその個人的な『幸福』とやら、尊重しよう。だが、これは取引だ。貴女が姜維と共に建寧へ帰る、その代償として、貴女は、我が魏にとっての『南の盾』となるのだ。蜀が、再び北への野心を見せた時、貴女は、その背後を突く、我が魏の刃となる。その『水禍の計』を、今度は成都に向けて放つのだ。それができるな?」

 それは、祝福などではない。冷徹な、政治的恫喝だった。

 次に、諸葛瞻が、氷のような声で言った。

「ならば、こちらも条件を出そう。玉蘭様、貴女が建寧の主として、その『幸福』を享受する限り、貴女は我が蜀漢の『東の眼』となるのだ。魏が、再びこの国を侵そうとした時、貴女はその全ての情報を、成都へ流す。そして、交易路を断ち、魏の経済を内側から締め上げるのだ。それが、貴女が皇族としての責務を放棄し、一個人の幸福を選ぶことへの、最後の『忠誠』の証だ」


 二人の英雄は、彼女の「愛」を、国家間のパワーバランスを保つための、新たな「枷」へと、瞬時に作り変えたのだ。彼らは、決して彼女を手放しはしない。

 玉蘭は、彼らのその冷徹な要求を、静かに聞いていた。

 そして、彼女は、美しく、そしてどこか哀しげに、微笑んだ。

「……承知、いたしました」

 彼女は、自らが選んだ幸福の代償として、永遠に続く、二つの大国からの監視と、見えざる隷属を受け入れたのだ。

 英雄たちの最後の戦いは、こうして、誰も血を流すことのない、しかし誰の魂も救われることのない、水底の盟約として、静かに幕を下ろしたのだった。

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