第33話:赤珠果の道、魂の代償
第33話:赤珠果の道、魂の代償
国境地帯にそびえ立つ古城の一室。
その円卓を、三人の若き指導者たちが囲んでいた。
部屋の空気は、水面下で巨大な龍たちが互いを牽制し合うかのように、重く、そして冷たく張り詰めている。窓の外では、数日前の戦の後始末をする兵士たちの姿が、まるで蟻のように小さく見えた。あの夥しい死の光景が、この交渉の無言の証人だった。
玉蘭は、その中心に座っていた。
一見すれば、二つの大国の指導者たちに囲まれた、か弱い皇女。だが、彼女がこの場にいることを、もはや誰も疑問には思わない。なぜなら、この場の全員が、特に向かいに座る二人の天才が、痛いほど理解していたからだ。この交渉の主導権を、実質的にこの赤髪の皇女が握っているということを。
魏の鍾会は、忘れようにも忘れられない。あの、天災の如き濁流。あれが、目の前のこの女の、たった一つの合図で引き起こされたという事実を。あれは、ただの幸運ではない。かの諸葛亮が遺したという、古の治水施設を利用した、周到に準備された軍事作戦だったと、彼の情報網は結論付けていた。あの古のダムには、まだ水が残っているやもしれない。あるいは、第二、第三のダムが存在しないとも限らない。この女を敵に回すことは、自軍の兵士たちを、再びあの悪夢に晒すことと同義だった。
蜀の諸葛瞻もまた、冷静な仮面の下で、苦々しく唇を噛んでいた。目の前の皇女は、もはや感傷で動く少女ではない。彼女が持つ「水禍の計」という物理的な脅威、そして何より、漢室の皇女である彼女自身が「魏に降伏する」と宣言したことの政治的な重圧。それを無視して強硬策に出れば、蜀そのものが内外から崩壊しかねない。彼は、この若き為政者を、もはや力でねじ伏せることはできないと悟っていた。
玉蘭は、その二つの巨大な力を、自らの「声」の重しとして、静かにテーブルの上に置いていたのだ。
彼女の背後には、姜維が、まるで彼女の影であるかのように、微動だにせず控えている。彼は、この孤高の戦いに臨む愛する女の、その精神を支える、ただ一つの揺るぎない柱でもあった。
「さて、始めようか。この実に馬鹿げた、しかし面白い茶会を」
最初に口火を切ったのは、魏の鍾会だった。その声には相変わらずの不遜な、しかしどこかこの状況を楽しんでいるかのような響きがあった。
「まずは、今回の戦の原因となった剣閣の領有権から片付けようではないか。かの地は、我が魏が多大な血を流して手に入れた土地。我が国のものとなるのが、当然の道理だ」
「それは聞き捨てならんな、鍾会殿」
即座に反論したのは、蜀漢の諸葛瞻だった。
「剣閣は、蜀の喉元。古来より漢の地である。そなたたちの暴力的な主張は、断じて認められん。それに、そもそも今回の侵攻は、貴殿らが仕掛けた不当なものであろう」
交渉は、冒頭から火花を散らした。互いの主張はどこまでも平行線を辿り、部屋の空気はますます冷たく重くなっていく。領土、賠償、捕虜交換。彼らは、それぞれの国の「正義」と「利益」を代弁し、一歩も譲ろうとはしない。
玉蘭はしばらく、二人のその子供の喧嘩のようなプライドのぶつけ合いを、黙って聞いていた。
彼女は、そっと目を閉じた。
脳裏に、あの泥の海の光景が蘇る。助けを求める声。絶望の表情。蜀も魏も関係ない、ただの、人の死。
彼女は、ゆっくりと目を開くと、静かに口を開いた。
「お二人とも、少し、よろしいでしょうか」
その凛とした、しかしどこまでも静かな声に、激しく応酬していた二人の天才が、はっと口をつぐんだ。
「お二方がおっしゃる道理も、正当性も、もちろん重要でございましょう。ですが、その土地に住む、名もなき民の暮らしは、一体どうなるのでございますか?」
彼女の声は、誰を責めるでもなく、ただ静かだった。
「国境線が数里こちらに動いたからといって、彼らの日々の粥が、美味しくなるわけではありません。むしろ、戦火に怯え、家族を失い、畑を焼かれるだけ。そんな彼らの犠牲の上に成り立つ勝利に、一体、どれほどの価値があるというのでしょう」
その、あまりにも本質を突いた問いに、二人の天才は、言葉に詰まった。彼らは、民を数字として、あるいは統治の対象としてしか見ていなかった。だが、彼女は、一人一人の顔を知っているかのように語る。
玉蘭は、そこで一枚の羊皮紙を、テーブルの上に広げた。それは、囚われの身となる前から、いつか来るであろう交渉の日のために、建寧の土の上で夢想し、都で諸葛瞻との議論を通じて冷徹な現実と向き合い、そして北の戦場で戦争の無意味さを目の当たりにする中で、練り上げてきた、壮大な計画書だった。彼女にとって、この三日間は、その最後の仕上げをするための時間に過ぎなかった。
「わたくしが提案するのは、土地の奪い合いではございません。新たな『道』を、創ることでございます」
彼女のその細く美しい指が、地図の上に、三つの点を結ぶ、巨大な三角形を描いた。
北の長安、西の成都、そして南の建寧。
「この三つの都市を結ぶ、巨大な交易網。これを『赤珠果の道』と、わたくしは名付けました」
「この道が開かれれば、どうなるか。まず、蜀漢には、北の道を通じて、魏の優れた鉄製品や、馬が安定して供給されます。北伐に明け暮れ、疲弊した国力を、回復させることができるでしょう」
彼女は、諸葛瞻の目を見た。
「そして、魏には、西の道を通じて、蜀の豊かな絹織物や茶がもたらされる。戦ではなく、交易によって、貴国はさらなる富を得ることになります」
そして、彼女は、二人の天才の目を、真っ直ぐに見据えた。
「ですが、この交易網の真の心臓は、わたくしの故郷・建寧です。わたくしたち南中には、赤珠果をはじめ、両国がまだ知らぬ、莫大な富を生む産物が眠っています。この富は、東の道を通り、荊州を経由して、直接魏の地へ。そして、南の道を通り、成都へともたらされる。建寧は、この巨大な富の源泉であり、そして、三国を結ぶ結節点となるのです」
その姿は、まるで未来を幻視する巫女のようだった。
「争いからは、憎しみしか生まれません。ですが、交易は、富と、そして相互理解を生み出します。互いの国が、この道によって経済的に深く結びつき、互いを必要とする関係になれたなら……。もはや、戦う理由そのものが、なくなるのではございませんか?」
その、あまりにも壮大で気高いビジョンに、二人の天才は、ただ圧倒されるばかりだった。
長い長い沈黙が、部屋を支配した。
やがて、鍾会が、くつくつと喉の奥で笑った。
「……面白い。面白いぞ、赤髪の皇女。お前のその頭の中は、一体どうなっているんだ。戦の後の講和会議で、商売の話を始めるとはな」
諸葛瞻もまた、深いため息をつきながら、どこか感嘆したような眼差しで玉蘭を見つめていた。
「……君の言う通りだ。我々は、あまりにも目先の、小さなプライドに囚われすぎていたのかもしれんな。だが…」
彼の目が、再び為政者の冷徹な光を宿した。
「…だが、それは理想論だ。互いを信用できるという保証は、どこにある? どちらかが、この道を軍事的に利用しないと、どうして言い切れる?」
鍾会も、頷いた。
「その通りだ。それに、この道を維持するための警備は、誰が担う? 利益の配分は? 問題は山積みだ。お前のその美しいおとぎ話だけでは、国は動かせん」
二人の現実的な指摘に、玉蘭は静かに頷いた。彼女は、この問いが来ることを完全に予測していた。
「ええ、存じております。丞相閣下、貴方様との議論の中で、わたくしが学んだのは、理想を現実に変えるための、この冷徹なまでの『仕組み』でしたから」
彼女はそう言うと、羊皮紙の地図の隣に、もう一枚、びっしりと文字が書き込まれた竹簡を広げた。
「まず、通貨の問題。蜀の五銖銭と、魏のそれが混在すれば、必ずや混乱が生じます。そこで、この交易路内でのみ通用する、『赤珠銭』とでも言うべき、新たな代用貨幣(引換券)を発行することを提案いたします。建寧に置く中央発行所にて、蜀銭、魏銭をそれぞれの国の価値に応じて『赤珠銭』に両替し、交易を行う。これにより、為替の安定と不正の防止を図ります」
その具体的な提案に、諸葛瞻と鍾会の目が、わずかに見開かれた。
「次に、警備コスト。道中の安全は、最も重要な課題です。これも、三者で共同の警備隊を組織し、その費用は、交易路の関所にて徴収する『通行関銭』によって賄います。関銭の税率は、三者の合議によって決定し、その収支は、三国の監査役が常に監視する体制を整える。これにより、特定の国が不当に利益を得ることを防ぎます」
「そして、利益の配分。関銭収入から警備コストを差し引いた純利益は、蜀と魏で五分五分といたします。ですが、わたくしたち建寧は、その利益を求めません。わたくしたちの利益は、中継地として、両国の産品を加工し、新たな付加価値を生み出すことで得る、『加工交易税』のみ。これにより、建寧は富を独占せず、あくまで三者の『奉仕者』としての立場を明確にいたします」
玉蘭は、そこで一度言葉を切った。
「お二人が懸念されるのは、互いへの不信感でしょう。ですが、この仕組みは、三者が協力しなければ、誰一人として利益を得られない構造になっております。裏切りは、自らの首を絞めることと同義。これこそが、理想論ではない、利益によって担保された、現実的な『信用』の形だと、わたくしは考えます」
彼女は、自らの切り札を、静かにテーブルの上に置いた。
「だからこそ、わたくしが、その『保証』となりましょう」
「……何?」
二人の天才が、訝しげに眉をひそめる。
「わたくしは、この度の戦で、多くの命を奪いました。その中には、貴国の大切な兵士たちも、数多く含まれております」
彼女は、鍾会の目を、真っ直ぐに見据えた。
「わたくしは、蜀漢の皇女であると同時に、貴国・魏にとっては、決して許されざる『戦争犯罪人』でもある。そのわたくしが、この道の番人となるのです。もし、魏が信義を破り、この道を軍事侵攻の路として使おうとするならば、わたくしは、この身を自ら蜀の法の下に差し出し、罪人として裁きを受けましょう。そうなれば、蜀全土の結束は固まり、貴国は手痛い反撃を受けることになるはずです」
そして、彼女は諸葛瞻に向き直った。その瞳には、悲しいほどの覚悟が宿っていた。
「逆もまた、然りです。もし、丞相閣下。貴方が、あるいは貴方の後の誰かが、この道を不正に利用し、再び戦の道具としようとするならば……」
玉蘭は、一瞬だけ言葉を切り、そして、彼の耳元にだけ聞こえるような、静かで、しかし鋼のような声で囁いた。
「――わたくしは、魏に『降伏』いたします」
その言葉を聞いた瞬間、諸葛瞻の怜悧な顔から、すっと血の気が引いた。
彼には、その一言の持つ、恐ろしいほどの重みが、痛いほど理解できた。漢室の皇女が、敵国に降る。それは、蜀漢の滅亡の鐘の音に等しい。
玉蘭は、再び凛とした声で、宣言した。
「この、わたくしの身柄一つを、この道の平和を維持するための、魂の『人質』として、お二人に差し上げます。わたくしがどちらかに傾けば、もう一方は必ず利を得る。これこそが、三者の力を均等に保つ、究極の『天秤』。……これ以上の『保証』が、必要でしょうか?」
その、あまりにも壮絶な覚悟。
彼女は、自らの命と、皇女としての尊厳そのものを交渉の切り札として、差し出したのだ。
二人の天才は、完全に言葉を失った。
目の前にいるのは、もはや皇女ではない。理想家でもない。
自らの全てを賭けて、新たな時代の平和を創ろうとする、一人の、恐るべき為政者だった。
玉蘭の、そのたった一つの提案が、膠着していた和平交渉のその空気を、一変させた。会談は、そこから新たな局面へと、大きく大きく、動き出していく。