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第32話:三雄鼎立、赤龍の咆哮

第32話:三雄鼎立、赤龍の咆哮

 魏の陣営の、夜明けの冷たい清冽な空気を、鉄と血の匂いが支配していた。

 玉蘭が囚われていた幕舎の周囲は、今や蜀漢軍と魏軍、両国の精鋭たちが剣を抜き放ち、睨み合う一触即発の戦場と化している。だが、誰も動かない。この場の全ての者たちが、三人の傑物の、次の一手を固唾を飲んで見守っていた。

 その中心に、三人の男が立っていた。

 一人は、父の羽扇を手に朝日を浴びて神仙の如く輝く、蜀漢の若き丞相、諸葛瞻 思遠。

 一人は、名剣を手に敗北を認めながらも、その瞳に決して屈しない炎を宿す、魏の天才、鍾会 士季。

 そして、もう一人。

 そのどちらにも与せず、ただひたすらに一人の女を守るためだけにそこに立つ、不敗の将軍、姜維 伯約。

 三者三様の英雄。三者三様の正義。

 その全ての視線は今、ただ一人、その渦の中心に凛として佇む、赤髪の皇女へと注がれていた。

 玉蘭は、そこに立っていた。

 もはや囚われの哀れな姫君ではない。

 姜維と諸葛瞻という二つの絶対的な盾をその背後に感じながら、彼女は本来の気高く、そして誰にも媚びることのない輝きを、完全に取り戻していた。

 夜明けの柔らかな光が、彼女の燃えるような赤髪を優しく撫で、その一本一本がまるで純金の糸であるかのようにきらきらと輝いた。

 夜着のままだったその服装は、姜維がさりげなく肩に掛けてくれた、彼の黒い軍の外套によって覆われている。ぶかぶかの男性用の外套は、かえって彼女のその華奢さと、どこか守ってやりたくなるような可憐さを際立たせていた。

 そして、何よりも彼女のその翠玉の瞳。

 そこにはもはや、囚われの憂いも、絶望もない。

 あるのはただ、自らの運命を、この大陸の運命さえもその手で切り開いてみせるという、強い強い意志の光だけだった。

 そのあまりの美しさと気高さに、三人の英雄はそれぞれ異なる想いを胸に抱きながら、固唾を飲んで彼女を見つめていた。


「……さて、どうする、鍾会殿」

 先にその沈黙を破ったのは、諸葛瞻だった。その声は、勝者の余裕に満ち満ちている。

「この状況でまだ戦を続けるおつもりかな? それとも、我が国の皇女を丁重にお返しいただき、停戦のテーブルにつくか。選択肢は二つに一つだと思うが?」

 鍾会は、忌々しげに舌打ちをした。

「……貴殿がここまでやるとはな、蜀の若造。正直、見くびっていたよ」

 彼は、自らの敗北を素直に認めた。だが、その瞳の炎は少しも衰えてはいない。

 彼の視線は、諸葛瞻を通り越し、その背後に立つ玉蘭へと向けられた。

「だが、俺はまだ諦めてはいないぞ、赤髪の皇女。この戦は、俺の負けだ。だが、お前という女を巡る戦いは、まだ始まったばかりだ」

 その黒い瞳は、まるで子供のように純粋な独占欲に燃えていた。

 諸葛瞻は、その鍾会のあからさまな視線に、不快げに眉をひそめた。

「彼女は、我が漢室の宝だ。貴殿のような魏の将にくれてやるつもりは、毛頭ない」

 今度は彼が、玉蘭へとその涼やかな瞳を向けた。その眼差しは、鍾会のそれとはまた違う、全てを包み込み、所有しようとする絶対的な為政者の、静かで、しかし激しい執着に満ちていた。

「玉蘭様、よくぞご無事でいてくれた。さあ、我が元へ。もう誰にも、そなたを傷つけさせはしない」

 彼は、彼女に優しく手を差し伸べた。

 二人の天才からの、熱烈な視線と言葉。

 そのどちらもが、玉蘭を、一人の人間としてではなく、手に入れたい「宝」として、あるいは「戦略の駒」として見ている。

 そのことに、玉蘭は、もう傷つくことはなかった。ただ、深く、そして静かに、理解していた。

 彼女は、どちらの手も取らなかった。

 その代わりに、彼女は、二人の英雄の前に、一歩、進み出た。姜維が、その行動に驚き、制止しようとするのを、彼女は静かに手で制した。


「お待ちください、お二人とも」

 玉蘭の凛とした声が、再び戦場の空気を震わせた。

「この戦いを、終わらせましょう。ですが、それは、どちらかの勝利や、敗北によってではありません」

 彼女は、深く、深く息を吸い込むと、宣言した。

「わたくしは、この蜀漢と魏、そして中立の立場として、このわたくしの故郷・建寧の三者の代表として、正式な停戦交渉のテーブルにつくことを、ここに提案いたします」

 その言葉は、あまりにも突拍子もなく、そして大胆不敵だった。

 一介の皇女が。いや、つい先ほどまで囚われの身であったはずの、か弱い少女が。

 二人の、当代きっての英雄を前にして、対等な交渉の場を要求したのだ。

 諸葛瞻と鍾会は、一瞬、呆気に取られて顔を見合わせた。

 そして、次の瞬間。

 二人の天才は、ほとんど同時に、腹の底から声を上げて笑い出した。

「はっ、ははは! 面白い!」「くくく……! やはり、お前は最高の女だ!」

 彼らの笑い声が、緊張していた戦場の空気を、奇妙に和らげていく。

 彼らは、改めて理解した。

 目の前のこの赤髪の皇女は、自分たちが今まで出会った、どんな人間とも違う。

 彼女は、誰かの庇護の下で輝く宝石ではない。

 自らが太陽となって周りを照らし、そして世界そのものを動かそうとする、革命の炎そのものなのだ。

 そして、彼女には、その資格があることを。

 なぜなら、彼女は、この場の誰よりも、この戦争の「痛み」を知っているからだ。


「よかろう」と諸葛瞻が言った。その瞳には、もはや彼女を駒として見る色はない。一人の恐るべき「交渉相手」として見る、敬意と警戒の色があった。「その無謀な賭け、乗ってやりましょう。だが、交渉の場が、この敵陣の真っただ中というわけにはいかんな」

「俺も異存はない」と鍾会が応じた。今の彼に、場所を選ぶ権利はない。「……ならば、どうする」

 その問いに、玉蘭が静かに答えた。

「ここより北へ半日の地に、かつて打ち捨てられた古い城砦がございます。どちらの国にも属さぬ、中立の地。三日後、お互いに兵を退き、それぞれが供として十名のみを連れて、そこで会談を開くというのは、いかがでしょう」

 三者会談。その誰も予想しえなかった提案に、二人の天才は、再び顔を見合わせ、そして獰猛な笑みを浮かべた。

「良いだろう。その提案、飲んだ」

「受けて立つ。貴様が俺たちをどう楽しませてくれるのか、じっくりと見物させてもらうとしよう」

 こうして、大陸の歴史上、誰も見たことのない、奇妙な三者会談の幕が、切って落とされることになった。


 大陸の全ての運命が、今、この古城の一室に集まった数人の若者たちの、その手に委ねられようとしていた。

 玉蘭の、最後の、そして最大の戦いが、今、始まる。

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