第31話:夜明けの攻防、三雄対峙
第31話:夜明けの攻防、三雄対峙
夜の最も深い闇が、東の空からほんのわずかに白み始める、その一瞬。
魏の陣営が、一日のうちで最も深い眠りについているその静寂を切り裂くように、二つの影が動いた。
姜維 伯約。
彼は、まるで闇に溶け込む黒豹のように音もなく、玉蘭が囚われている幕舎の近くの柵を、滑るように乗り越えていく。その鍛え上げられた肉体には一切の無駄な動きがなく、まるで重力など存在しないかのようだった。彼のすぐ後を、腹心の部下である傅僉が、同じように影となって続いた。
幕舎の裏手へとたどり着いた二人は、息を殺しながら、玉蘭の部屋の窓辺へと慎重に近づいた。
約束通り、窓には鍵がかかっていなかった。
姜維はそっと窓を開け、部屋の中へとその身を滑り込ませた。
部屋の中はまだ薄暗かった。だが、彼の、夜の闇に慣れた黒曜石の瞳は、すぐにその姿を捉えた。
寝台の傍らで、既に外出用の簡素な、しかし動きやすい濃緑色の旅装束に着替えを済ませた玉蘭が、小さな荷袋を胸に抱きしめ、息を殺してこちらを見つめていた。
数週間ぶりに見る彼女の姿。そのやつれながらも気高い美しさに、姜維は一瞬、息をするのも忘れた。
燃えるような赤髪は、長い旅に備えて、きつく一本の三つ編みにまとめられている。そのおかげで、彼女の小さな形の良い顔の輪郭と、驚くほど白く細いうなじの清らかさが際立っていた。月明かりが、彼女の大きな大きな翠玉の瞳を照らし出し、そこには不安と、しかしそれ以上に、彼を信じ抜いた強い決意の光が、宝石のようにきらめいている。
姜維は彼女のその姿を目の当たりにし、胸が締め付けられるような愛おしさと、そして彼女をこんな危険な目に遭わせてしまった自分への激しい怒りとが、同時に込み上げてくるのを感じた。
「……迎えに来た」
姜維は、かろうじて、それだけを絞り出すように囁いた。
その声に、玉蘭の張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩んだ。
「……遅いわよ。馬鹿」
彼女は、潤んだ瞳で彼を睨みつけながら、そう呟いた。その声は怒っているようで、しかしその響きの奥には、心の底からの安堵が滲んでいる。
二人の間に、言葉はもう必要なかった。
姜維は、彼女の小さな手を強く握った。その温かさに、玉蘭はようやく、自分が一人ではないのだと実感した。
だが、彼らが部屋を出ようとした、まさにその瞬間だった。
ジリリリリリリリリンッ!!!
陣営全体に、けたたましい銅鑼の音が、けたたましく鳴り響いた。
「なっ……!?」
姜維の顔が、驚愕に歪んだ。罠だ。その二文字が、彼の脳裏をよぎった。
窓の外が、にわかに騒がしくなる。松明の赤い光があちこちで灯り、屈強な魏の兵たちが、雄叫びを上げながら、この幕舎へと殺到してくるのが見えた。完全に、包囲されている。
幕舎の入口が、外から乱暴に切り裂かれた。
なだれ込むように入ってきた完全武装の魏兵たち。その人垣を、ゆっくりと掻き分けるようにして、一人の男が姿を現した。
魏の総大将、鍾会。
その精悍な顔には、全てを見通していた勝者の、余裕の笑みが浮かんでいる。
「……見事な潜入だったぞ、蜀の麒麟児よ。褒めてやろう。だが、残念だったな」
彼は、玉蘭が侍従に渡した手紙を、ひらひらとさせて見せた。
「俺は昨夜、彼女が書かせたこの甘い時間稼ぎの手紙を読んだ瞬間に、全てを察していたよ。あの気高い赤髪の皇女が、そう易々と俺に靡くはずがない、と、な。お前たちが来るのを、今か今かと待ち構えていたのだ」
絶体絶命。姜維と傅僉は背中合わせになり、玉蘭をその中心に守りながら、剣を構える。
鍾会は、そんな追い詰められた彼らを、楽しげに眺めながら、玉蘭へとその視線を向けた。
「さあ、どうする、玉蘭? 今、ここで俺の手を取り、妻となることを誓うならば、この哀れな忠臣たちの命だけは、助けてやってもいい」
それは、究極の選択だった。
玉蘭は、震える唇をぐっと噛みしめた。彼女の美しい翠玉の瞳が一瞬、絶望に揺らいだ。
だが、次の瞬間、その瞳には再び、燃えるような誇りの炎が宿った。
彼女は、姜維の背後から一歩前に進み出ると、鍾会を真っ直ぐに見据えた。
「お断りいたしますわ、鍾会将軍」
彼女の凛とした鈴の音のような声が、張り詰めた部屋の中に響き渡った。
「わたくしは、誰かの慈悲によって生き永らえるか弱い女ではございません。そして、このわたくしが愛したこの誇り高き将軍もまた、女を盾にして生き恥を晒すような男では、決してありませんわ」
彼女は、ゆっくりと姜維の方を振り返った。そして、彼にしか見えないように、にっこりと、この世のどんな花よりも美しく、そして愛おしげに微笑んだ。
(わたくしは、あなたと一緒なら、どこへでも行けるわ。たとえ、それが黄泉の国でも、ね)
その微笑みが何を意味するのか、姜維には痛いほどわかった。そうだ、これこそが俺が命をかけてでも救いたいと願った女だ。
鍾会は、彼女のそのあまりにも気高い答えに一瞬言葉を失い、そして次の瞬間、彼の表情は賞賛から、冷たい冷たい怒りへと変わった。
「……そうか。ならば、仕方がない。実に惜しい才能だがな」
彼が、衛兵たちに「やれ」と冷酷な命令を下そうとした、まさにその時だった。
ドドドドドドォォォォンッ!!!
陣営全体を揺るがすほどの凄まじい爆発音が、外から響き渡った。
「な、何事だッ!?」
鍾会が驚いて窓の外を見た。
堅固なはずの陣営の東門が、予期せぬ内側からの爆発によって、木っ端微塵に吹き飛ばされていた。
(内応者か!? まさか、鄧艾の残党が…!?)
そして、その混乱に乗じ、まるで好機を待ち構えていたかのように、蜀漢の龍の紋章を掲げた一団の騎馬隊が、怒涛の勢いで突入してくるではないか。
その先頭に立つのは、父の形見の羽扇を手に、自ら四輪車を駆る、若き丞相、諸葛瞻その人だった。
彼は、この日のために、密かに軍を再編し、成都から進軍していたのだ。姜維たちの潜入は、彼の本隊が突入するための、陽動でもあった。
「――間に合ったようですな、玉蘭様!」
その声は、戦場の喧騒の中にあって、なお、涼やかに響き渡った。
状況は、再び一変した。
今や、この魏の陣営は、内と外から、蜀漢軍によって完全に包囲されていた。
鍾会は、忌々しげに舌打ちをすると、諸葛瞻を睨みつけた。
「……やるな、蜀の若造。ここまで読んでいたか」
「そちらこそ、なかなかの策士のようだ、魏の若き天才よ。だが、一つだけ、読み違えたな」
諸葛瞻は、四輪車の上で、優雅に微笑んだ。
「彼女は、決して誰かの鳥籠に収まるような女ではない、ということを」
魏の陣中の、夜明け。
一人の美しき赤髪の皇女を巡り、ついに蜀漢の若き丞相と壮年の将軍が、魏の天才と、直接対峙する。
玉蘭を「駒」として支配しようとする者。
玉蘭を「魂の片割れ」として欲する者。
そして、玉蘭を「ただ一人の女性」として守ろうとする者。
三人の英雄。三つの野望。三つの愛。
その全てが、この戦場で、激しくぶつかり合おうとしていた。大陸の歴史が、今、大きく大きく、動こうとしていた。