第30話:闇夜の麒麟、密かなる炎
第30話:闇夜の麒麟、密かなる炎
魏の陣中に、夜の帳がゆっくりと下りていく。
無数の幕舎に松明の赤い光が灯り、兵士たちの談笑や、武具の手入れをする音が、警戒厳重な陣営に、偽りの平穏をもたらしていた。誰もが、この静寂のすぐ裏側に、蜀漢の影が忍び寄っていることなど、知る由もなかった。
玉蘭は一人、与えられた豪華な部屋の、精巧な作りの窓辺に佇んでいた。
夜の闇に溶け込むような、深い深い紺色の簡素な部屋着を、その華奢な身にまとっている。月明かりが、その雪のように白い肌と、緊張にこわばる真剣な横顔を、青白く照らし出していた。
昼間の鍾会との対話が、彼女の心に重く重くのしかかっている。
『君の愛する故郷と愛する男が、我が魏軍の軍靴に踏み躙られるのを、この美しい鳥籠の中からただ見ているがいい』
彼のその言葉は甘い響きとは裏腹に、彼女の選択肢を一つ、また一つと奪っていく、冷たい冷たい脅迫だった。このまま彼の求婚を拒み続ければ、彼は本当に蜀漢への総攻撃に踏み切るだろう。
かといって彼の妻となることなど、彼女のその誇りが断じて許さなかった。
進むも地獄。退くも地獄。
彼女は、完全に手詰まりの状況に追い込まれていた。
(本当に、もう打つ手は何もないのかしら……)
玉蘭は、そっと窓枠にその小さな額を押し付けた。磨き上げられた木の冷たい感触が、火照った彼女の思考をわずかに鎮めてくれた。
その時だった。
ふと、彼女の翠玉の瞳が、何かを捉えた。
幕舎の外にある、武器庫。その暗い建物の影で、何かが、微かにきらりと光ったような気がしたのだ。
気のせいか、と目を凝らした。
すると、再び闇の中でほんの一瞬だけ、小さな小さな光が点滅した。それはまるで夜空に瞬く蛍の光のようでもあり、あるいは誰かが、磨き上げた金属片で月光を反射させているかのようでもあった。
光は不規則に、しかし明らかに何らかの意思を持って、点滅を繰り返していた。
玉蘭は、息を飲んだ。
(まさか……これは、光の暗号…!?)
彼女の脳裏に、幼い頃、宮殿の書庫で読んだ、古い古い兵法の書物の一節が蘇った。光の点滅を利用した、原始的な暗号通信。そんな古典的な、しかしそれ故に敵に気づかれにくい伝達手段。
彼女は、心臓が早鐘のように激しく鳴るのを感じながら、その光の点滅のパターンを、必死で記憶に焼き付けようとした。
長、短、長……。短、短、長……。
その光のメッセージは、ごく短いものだった。数回の点滅を終えると、光はふつりと消え、陣営は再び元の深い静寂に包まれた。
玉蘭は窓から離れると、部屋の中を早足で歩き回った。
先ほどの光の点滅パターンを、頭の中で何度も何度も反芻する。そして、蜀漢軍で古くから使われている初歩的な暗号解読法に当てはめていった。
三つの言葉が浮かび上がった。
――『アサ』『マド』『アケロ』。
(朝、窓を開けておけ……!)
玉蘭は、ごくりと乾いた喉で唾を飲み込んだ。
誰かが、来てくれる。
わたくしを、助けに。
その可能性に思い至った瞬間、彼女の心に、絶望の闇を切り裂く、一筋の強い強い希望の光が差し込んできた。
それは、若き丞相が送ってくれた、蜀漢の密偵だろうか。
それとも……。
彼女の脳裏に、あの不器用で朴念仁で、しかし誰よりも自分を守ろうとしてくれた、将軍の面影が浮かんだ。
(姜維……)
彼が、来てくれたのだとしたら。
玉蘭の胸が、きゅっと甘く痛んだ。
彼女は、もう迷わなかった。
この千載一遇の機会を、絶対に逃すわけにはいかない。
彼女は、机の前に座ると、一枚の上質な羊皮紙を取り出した。そして、羽ペンを手に、流れるような美しい文字で、手紙を書き始めた。
宛名は、魏の総大将、鍾会。
『鍾会将軍。貴方様の寛大なるご提案、改めて深く深く感謝いたします。わたくしのような者のために、これほどまで心を砕いてくださるとは、望外の幸せにございます。つきましては、一度、熟考する時間をいただきたく、明日の朝まで、どうかそっとしておいてはいただけませんでしょうか。明日の正午に、改めてわたくしの幕舎へお越しください。その時には、必ずや将軍がご満足のいくお返事を、ご用意いたします』
それは、相手を油断させるための、甘い甘い罠だった。この手紙を侍従に渡しておけば、明日の朝までは、少なくとも誰もこの部屋を訪れることはないだろう。
玉蘭の翠玉の瞳に、獲物を狙う雌豹のような、鋭い知性の光が宿った。
囚われの皇女は今、自らの運命をその手で切り開くための、小さな、しかし確かな反撃の狼煙を上げたのだ。
***
その頃、魏の陣営の外れにある、薄暗い森の中で。
姜維は、丞相府直属の影の部隊『青龍』の精鋭たちと共に、息を潜めていた。
彼らは数日前に、獣道を使って魏の支配領域に潜入し、玉蘭が幽閉されている幕舎の場所を突き止めていたのだ。先ほどの光の暗号は、彼が、部下の一人に命じて送らせたものだった。
「……返信は、ないか」
「はっ。姫君の幕舎は閉ざされたまま、動きはございません」
部下の報告に、姜維は静かに頷いた。
返信がないことが、むしろ、彼女がこちらの意図を正確に理解したという証拠だった。下手に反応すれば、敵に気づかれる危険がある。あの聡明な彼女なら、そのくらいのことはわかっているはずだ。
「作戦は、予定通り決行する」
姜維は、地面に広げられた陣営の見取り図を、小枝でなぞりながら、低い声で言った。
「夜明け前、衛兵の交代で警備が最も手薄になる、ほんのわずかな隙を突く。俺と傅僉は西の柵を越え、直接姫様の幕舎へ。残りの者は、陽動として東門で騒ぎを起こせ。目的は、ただ一つ、玉蘭様の身柄の確保。決して深追いはするな。確保次第、ただちに脱出する」
その指示は、どこまでも冷静で、的確だった。
だが、彼のその内には、煮えたぎる溶岩のような、熱い熱い想いが渦巻いていた。
(待っていろ、玉蘭)
彼は、腰に結んだ、彼女から託された薬草のお守りを、強く握りしめた。その、ほのかな香りが、彼のささくれ立った心を、わずかに鎮めてくれる。
(必ず、迎えに行く。そして、今度こそ、そなたの全てを、この腕で守り抜いてみせる。丞相との約束など、知ったことか。お前は、誰の物でもない。お前自身のものだ。そして、俺は、お前が自由に生きるための、ただの剣であれば、それでいい)
魏の陣中の、深い深い夜の闇。
その闇の中で、玉蘭と姜維、二人の燃えるような決意の炎が、互いを求め合うように、静かに、そして確かに、共鳴していた。
運命の夜明けは、もうすぐそこまで迫っている。
そして、その夜明けが、大陸の歴史を再び大きく揺るがす、新たな戦いの始まりとなることを、まだ誰も知らなかった。