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第3話:絶望の洗礼

第3話:絶望の洗礼

 都を出発してから、揺れる馬車の中で季節が一つ、また一つと逆戻りしていくような日々が続いた。街道沿いの木々は豊かな緑を失い、次第に葉を落として寒々しい枝を空に向けて突き出している。手入れの行き届いた田畑は、いつしか枯れた茶色と剥き出しになった灰色の岩が混じる、荒涼とした風景へと姿を変えていった。南へ向かうにつれて空気は、まるで湿った布のように肌にまとわりつき、生暖かい風は不快な熱帯の気候を容赦なく告げていた。

 十日間に及ぶ長く厳しい旅路の果て。

 馬車はようやく目的の地へと到着した。御者が「建寧郡でございます、姫様」と告げたその沈んだ声に、玉蘭は固唾を飲んで窓の外に目を向けた。

 そこに広がっていたのは、彼女の最も悲観的な想像さえも遥かに下回る、絶望的な光景だった。

 郡都とされる村は、あまりにも小さく、そして全ての活気が魂ごと抜き取られてしまったかのように静まり返っていた。石と粗末な木材で建てられた家々は、どれも長年の風雨に耐えかねて傾ぎ、屋根には補修の跡が痛々しく残っている。道行く人々の服装はみすぼらしく、その表情は一様に暗い。土の色をしていた。長年の貧困と諦めが、彼らの顔から人間らしい表情を奪い去ってしまったかのようだった。

 彼らは、立派な馬車とそこから降りてきた場違いなほど派手な赤髪の自分を、一瞥しただけで、すぐに興味を失ったかのように目を伏せた。それは好奇心ですらなく、「どうせすぐにいなくなる、都からの気まぐれな貴人」を見る、冷え切った諦めの眼差しだった。その無関心は、どんな罵声よりも玉蘭の心を抉った。

 案内された太守の館は、館というよりは少し大きな石造りの廃墟といった方が正確だったかもしれない。

 壁は黒ずんだ蔦にその全面を覆い尽くされ、窓のいくつかは割れたまま木の板で無残に塞がれている。かつては庭園だったであろう場所は、腰の高さまで伸びた枯れた雑草に覆い尽くされ、もはやその面影すらなかった。

 館の扉が、まるで巨人の呻き声のような軋む音を立てて開かれた。中から現れたのは、前太守に仕えていたという数人の役人たちだった。その筆頭である初老の男がおずおずと名乗った。

「よ、ようこそおいでくださいました、玉蘭様。わたくしは書記官の董和とうわと申します」

 彼の顔には深い諦めの皺が刻まれ、その背中は長年の重い責務に押しつぶされるかのように丸まっていた。新しい太守代行への期待の色など、その瞳には微塵も感じられない。あるのはただ、新たな厄介事が舞い込んできたことへの疲労と警戒だけだった。

 通された部屋は、この廃墟同然の館の中では一番ましな部屋なのだろう。だが、それでも壁の隙間からは絶えず湿った風が吹き込み、じめじめしたかび臭い匂いが、都の華やかな香に慣れた玉蘭の鼻を容赦なく突いた。

 玉蘭は部屋の中央に一人立ち尽くした。一瞬、本当にほんの一瞬だけ、激しい後悔の念が彼女の胸を締め付けた。なぜ、こんな場所に来てしまったのだろう。もっとましな道があったのではないか。

(ここで、へこたれてどうするのよ……!)

玉蘭は強く、強く拳を握りしめた。掌に食い込む爪の鋭い痛みが、彼女のくじけそうになる心を無理やり奮い立たせた。物理的な危険から逃れることはできた。だが、このまま無様に逃げ帰れば、わたくしを待っているのは、肉体の死よりも惨めな、魂の死だ。「やはりお前はただの駒だったな」という、都中の嘲笑。それは、わたくしに流れるこの神聖な血と、漢の皇女としての誇りを、永遠に泥の中に貶めること。それだけは、断じて許せない。死んでも、ごめんだわ。ここで泣いて都に逃げ帰れば、それこそ都の連中の思う壺だ。

 彼女は、都から持ち出した、諸葛亮が遺したという古文書の束を広げた。そこには、彼女の知らない複雑な図面や、南中の地理に関する詳細な記述があった。「土地の酸性化」「石灰による中和」「水利の重要性」。その言葉が、彼女に一条の光を示した。

(そうよ、これだわ! わたくしには知識がある! この偉大な先人の知恵があれば、この土地を蘇らせることなど、容易いはず!)

 その日の午後、玉蘭は休む間もなく行動を開始した。

「董和! 領地の資料を全て見せてちょうだい! それと、民の代表者たちと話がしたいの。明日、集めてもらえるかしら?」

 突然の矢継ぎ早の命令に、董和たちは目を白黒させた。

 翌日、集められた村長や長老たちを前に、玉蘭は意気揚々と宣言した。

「これより、この建寧郡の改革を始めます。まずは、土地の改良からよ。この書物によれば、この土地の土は酸性に偏りすぎている。これを、山で採れる石灰岩を砕いて撒くことで中和させ、豊かな土壌へと蘇らせます!」

 民たちの反応は、彼女の予想以上に冷ややかだった。いや、それはもはや冷笑と、明確な敵意だった。

「姫様、お言葉を返すようですが、そんな白い石ころなんぞを撒いて、土が良くなるなどと、本気で信じておられるのか」

 一際大きな体躯の若者、孟安が腕を組んで吐き捨てるように言った。

「また都の貴人様の戯れたわむれごとか。我々には日々の仕事で手一杯だ。お遊びに付き合っている暇などない」

 彼らの言葉には、明確な拒絶と、長年虐げられてきた者特有の頑なな不信があった。

 玉蘭は、その侮りを真正面から受け止めた。彼女のプライドが、ここで引くことを許さなかった。

「ええ、そうね。わたくしは都育ちの世間知らずのお嬢様よ。鍬を握ったことも、泥にまみれたことも一度もないわ」

 彼女は静かに立ち上がると、その場にいた全員を見渡した。

「でも、わたくしには、かの諸葛亮孔明様が遺された知恵がある。このまま何もしないで諦めて朽ちていくくらいなら……一度くらい、この偉大な先人の知識に賭けてみるのも、悪くはないんじゃないかしら?」

 彼女は館の裏にある荒れ果てた一画を指さした。

「ならば、わたくしが一人で証明してやるわ! あの土地を、このわたくしがたった数ヶ月で、豊かな麦畑に変えてみせる! もし成功した暁には、あなたたちもわたくしのやり方に従ってもらう。それで文句はないでしょう!」

 そのあまりにも傲慢な宣言に、民たちは呆れたように鼻で笑った。孟安は「せいぜい頑張るんだな、姫様よ」と嘲笑を浮かべ、彼らは深々と頭を下げると、一人、また一人と無言でその場を去っていった。

 玉蘭は、悔しさに唇を噛んだ。

「……見てなさい」

 彼女は、館に辛うじて残っていた農作業用の粗末な服に着替えると、一本の錆びついた鍬を手に、館の裏手にある荒れ地へと向かった。

 遠巻きに「また何か始めたぞ」と様子を窺う民たちの前で、玉蘭は慣れない手つきで石のように硬い地面に鍬を振り下ろした。

 ガキン、と硬い音がして、腕に痺れが走る。

 何度も、何度も、彼女は鍬を振り下ろした。皇女として磨き上げられた、白く滑らかな手のひらはすぐに赤くなり、豆が潰れて血が滲んだ。彼女は民たちの協力も得られぬまま、一人で石灰岩を運び、砕き、畑に撒いた。その姿は悲壮ですらあった。

 数週間後。彼女の努力が実を結び、実験畑に植えられた麦の種から、奇跡のように青々とした芽が出た。それは、周囲の荒れ地とは比べ物にならないほど、力強い生命力に満ちていた。

 玉蘭は「見たことか!」と胸を張った。民たちも、その信じがたい光景に半信半疑ながらも驚きを隠せない。董和は涙を流して喜んだ。

 だが、悲劇はそこから始まる。

 収穫を間近に控えたある夜。建寧の空が、まるで底の抜けた桶のように、激しい豪雨を大地に叩きつけ始めた。それは、この土地に年に数度訪れる、全てを洗い流すかのような熱帯のスコールだった。

 玉蘭の知識は、土壌の化学的性質は理解していた。だが、この土地固有の気候、その圧倒的な自然の暴力までは計算に入れていなかったのだ。古文書には、「水利を制すべし」と一文があっただけ。その本当の重みを、彼女は理解していなかった。

 都の基準で設計された畑は、水はけの処理が全く追いつかず、一晩で完全に水没した。

 数日後、水が引いた後に現れたのは、無残な光景だった。黄金色に実るはずだった麦の穂は、全て根腐れを起こし、茶色く変色して泥の中に突っ伏していた。

 玉蘭の希望は、建寧の泥の中に、跡形もなく消え去った。

 広場に引きずり出された玉蘭に、先日まで彼女の成果に驚いていた民たちの、豹変した視線が突き刺さる。それはもはや侮蔑ではない。飢えを目前にした、本物の憎悪だった。

 孟安が、彼女の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄る。

「これが、お前の言っていた『改革』か! 俺たちのなけなしの種籾を使い、お前の戯言に付き合った結果がこれか! これで俺たちは、どうやって冬を越せと言うんだ!」

 玉蘭は、何も言い返せなかった。

 知識への過信。現場を知らないことの愚かさ。その全てが、民の命を崖っぷちへと追いやった。

 彼女の皇女としてのプライドは、この建寧の冷たい泥の中で、無残に、そして完全に打ち砕かれたのだった。彼女は、生まれて初めて、真の絶望という名の洗礼を受けた。

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