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第29話:丞相の非情、忠臣の誓い

第29話:丞相の非情、忠臣の誓い

 蜀漢の都、成都。

 丞相府の最も奥にある一室は、夜だというのに、数多の蝋燭の光で、昼間のように明るかった。

 その中央で、若き丞相・諸葛瞻は、一枚の巨大な大陸地図を前に、微動だにせず、思考の海に深く沈んでいた。

 剣閣での辛勝と、劉玉蘭拉致という最悪の凶報。その二つの知らせが都に届いてから、既に十日以上が過ぎている。朝議は、連日紛糾していた。玉蘭の身柄を巡り、魏と和平交渉に入るべきだという穏健派と、この機に一気に魏を叩くべきだという強硬派(その実、黄皓に連なる、玉蘭を疎む者たち)との間で、議論は全く噛み合わない。

 諸葛瞻は、その不毛な議論に、内心で冷たい嘲笑を送っていた。

(愚か者どもめ。問題の本質は、皇女一人の命ではない。劉玉蘭という、蜀の未来を左右しかねない『戦略兵器』が、敵国に渡ったという事実だ…)


 彼の机の上には、密偵から届けられた、剣閣の戦いに関する詳細な報告書が広げられていた。そこには、玉蘭があの「水禍の計」を、いかにして計画し、実行したかが、冷静な筆致で記されている。古文書を解読し、忘れられた古代ダムを発見し、それを再利用して、十万の魏軍を壊滅させた、と。

(…私は、彼女の何を、見ていたのだろう…)

 彼は、自問した。彼女の才能を、ただ地方を豊かにするだけの、愛らしい「宝」としか見ていなかったのではないか。自分の鳥籠の中で、美しくさえずらせておけばよい、と。

(なんと、愚かな。彼女は、ただの理想家ではない。父上が遺した知恵を、これほどまでに恐ろしい形で現出させる、本物の『戦略家』だったのだ…)

 一瞬、彼の背筋に、冷たいものが走った。

(彼女の才能は、あまりに危険すぎる。魏の手に渡れば、蜀にとって最大の脅威となる。何としても、取り戻さねば。だが…)

 大軍を動かせば、国庫は破綻する。全面戦争となれば、国そのものが滅びかねない。

 彼の怜悧な頭脳は、既に結論を導き出していた。

 取り戻すための手段は、ただ一つしかない。


 そこに、一人の男が、まるで呼ばれたかのように、静かに入室を告げた。

 姜維だった。

 彼は、成都に帰還して以来、毎日、こうして丞相府を訪れていた。出撃の許可を、ただひたすらに待つために。

 その身にまとった鎧は、既にきれいに磨き上げられている。だが、その顔の憔悴は隠せず、瞳の奥だけが、獲物を求める狼のように、ギラギラと燃えていた。

 彼は、諸葛瞻の前に進み出ると、何も言わずに、その場に深く深く片膝をついた。

 その無言の行動が、何よりも雄弁に、彼の覚悟を物語っていた。

 諸葛瞻は、地図から目を上げ、初めて、真正面から姜維の顔を見た。

「…まだ、諦めておらぬか」

「諦める、という言葉を、俺は知らん」姜維の声は、乾いていたが、その内には鋼のような意志が通っていた。

「丞相閣下。どうか、この姜維に、玉蘭様を救出する任を、お与えください」

 その言葉に、諸葛瞻は、静かに、そして残酷な問いを投げかけた。

「なぜだ? そなたが、彼女を救いたい理由は。蜀漢の衛将軍としてか? それとも…ただの一人の男としてか?」

 その問いに、姜維は、一瞬の迷いもなく、答えた。

「…その、どちらもだ」

 彼は顔を上げた。その瞳は、諸葛瞻の冷徹な視線を、真っ直ぐに受け止めていた。

「彼女は、漢室の宝だ。その類稀なる才覚は、この国の未来に不可欠。故に、将軍として、必ずや奪還せねばならぬ。だが、それ以上に」

 彼の声に、初めて、抑えきれないほどの私情が滲んだ。

「…彼女は、俺が、この命に代えても守ると誓った、たった一人の女だ。その誓いを果たせずして、どうして蜀の兵を率いることなどできようか」

 その、あまりにも真っ直ぐな答え。

 諸葛瞻は、しばらく黙っていた。彼の心に、再び、嫉妬とも、あるいは羨望ともつかない、複雑な感情が渦巻いた。

 だが、彼は、為政者だ。

「……よかろう」

 彼は、深いため息と共についに言った。

「そなたのその覚悟、信じよう。だが、これは、正規の軍事行動ではない。私が、そなたに下す、極秘の『密命』だ」

 彼は、地図の上の一点を、羽扇で指し示した。

「そなたには、我が丞相府直属の、影の部隊『青龍』を預ける。その数、わずか二十。彼らと共に、この間道から魏の陣中に潜入し、玉蘭様を奪還せよ。これは、誰にも知られてはならぬ、闇の仕事だ」

「……はっ! ありがたき幸せ……!」

「だが、勘違いするな、姜維」

 諸葛瞻の声が、氷のように冷たくなった。

「これは、そなたの恋情を叶えるための機会を与えているのではない。そなたの忠誠を、試しているのだ」

 彼は立ち上がると、姜維の目の前にまで歩み寄った。

「そなたが救い出すのは、漢室の宝であり、そして……いずれ、この私の隣に立ち、この国を治めるべき女性だ。彼女を無事連れ帰ったその暁には、そなたには潔く、身を引いてもらう。一人の衛将軍として、北の国境の守備に専念せよ。二度と、彼女の前に、私情を以って現れることは許さん。…いいな?」

 それは、協力の申し出などではない。

 彼の私情と忠誠心を利用し、最も危険な任務を果たさせた上で、全てを奪い去ろうという、冷酷無比な宣告だった。

 国の未来を担うべき女性。その言葉が、姜維の胸に、重く重く突き刺さった。

 若き丞相は、玉蘭を諦めてはいなかった。

 彼女を救い出したその先に待っているのは、丞相と将軍の、新たな、そしてより残酷な戦い。

 だが、姜維はもう迷わなかった。

「――御意」

 彼は、ただ一言、そう答えた。

 今は、それでいい。今はただ、彼女をこの腕に取り戻すことだけを考えればいい。その後のことなど、その時に考えればいい。たとえ、その先に待っているのが、さらなる絶望だとしても。

 彼の黒い瞳には、もはや迷いも嫉妬もなかった。

 ただひたすらに愛する女をこの手に取り戻すという、絶対的な覚悟の光だけが、静かに、そして力強く燃え盛っていた。

 丞相の非情な決断と、忠臣の純粋な誓い。

 二人の英雄は、それぞれのやり方で、一人の囚われの皇女を救うための、次なる戦いを開始した。

 そして、姜維が去った後、諸葛瞻は一人、地図を見下ろした。「行け、姜維よ。お前は最強の『陽動』だ」その口元には、冷徹な笑みが浮かんでいた。「さて、我が本隊も駒を進めるとしようか」。大陸の運命を左右する壮絶な物語の歯車が、今、再び大きく大きく動き始めたのだった。

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