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第28話:黄金の鳥籠、魂の対話

第28話:黄金の鳥籠、魂の対話

 魏の陣中での囚われの日々は、奇妙な平穏の中にあった。

 玉蘭が幽閉されたのは、粗末な牢獄ではなかった。それは、鍾会が自身の幕舎の隣にわざわざ設えさせた、豪華な、そして堅固な一室だった。床には蜀から奪ったのであろう柔らかな絨毯が敷かれ、机の上には常に季節の果物が盛られ、書棚には彼女が興味を示すであろう兵法書や歴史書が、毎日新しいものに入れ替えられた。

 鍾会は、彼女を丁重に扱った。豪華な食事、美しい衣服、知的好奇心を満たす書物の山。だが、その全てが、玉蘭にとっては見えない黄金の鎖のように感じられた。

 彼女は、まるで精巧に作られた美しい人形のように、ただそこに在ることだけを求められている。その事実が、何よりも彼女の誇りを、じりじりと、しかし確実に傷つけていった。

 唯一の慰めは、幕舎の窓から見える、北の乾いた空だった。そこには、彼女の故郷・建寧では決して見ることのできない、どこまでも高く、澄み切った蒼穹が広がっている。彼女は毎日その空を眺めながら、遠い南の故郷と、そこにいる愛しい人々のことを想っていた。

(みんな、どうしているかしら……。孟安は、ちゃんと畑仕事をしているかしら。董和は、都の役人たちに言いくるめられていないかしら…)


 そして、何よりも彼女の心を苛むのは、愛する男の、最後に見たあの絶望に満ちた顔だった。

(姜維……あなたは、無事でいるの…? わたくしを、今も探してくれているの…?)

 彼を想うだけで、胸が張り裂けそうになる。


 だが、そんな彼女の思考に、不意に割り込んでくる、もう一人の男の面影があった。

 この鳥籠の主である、鍾会。

 あの、全てを見透かすような、獰猛な、しかしその奥に深い孤独を湛えた瞳。

 (あの男は、何を考えているのだろう…?)

 それは、敵であり、自分を支配しようとする、最も憎むべき相手。だが、同時に、自分の知略を唯一見抜き、その価値を理解した男。その複雑な存在が、彼女の心を言い知れぬ形で掻き乱し、胸をざわつかせるのだった。


 そんなある日の昼下がり。

 幕舎の入口が静かに開かれ、一人の男が入ってきた。若き魏の天才、鍾会。

 今日の彼は、総大将としての威厳に満ちた鎧ではなく、動きやすい簡素な、しかし上質な仕立ての私服を身につけていた。その精悍な顔には、全てを見透かすような鋭い、しかし子供のような無邪気ささえ感じさせる笑みが浮かんでいる。

「やあ、赤髪の姫君。我が軍の暮らしには、もう慣れたかね?」

「……おかげさまで。至れり尽くせりのご待遇に、感謝しておりますわ、鍾会将軍」

 玉蘭は、書物を読んでいた椅子から立ち上がることもせず、ただ静かに皮肉を込めて答えた。

 鍾会は、その態度を気にするでもなく、彼女の向かいの椅子にどさりと腰を下ろした。

「玉蘭。俺の妻になれ」

 そのあまりにも単刀直入な求婚の言葉に、玉蘭は美しい眉をひそめた。

「それは、わたくし個人へのお言葉でしょうか。それとも、わたくしの後ろにある『蜀漢』への、政略の一環でございましょうか。いずれにせよ、お受けすることはできませんわ」

「なぜだ?」と彼は、純粋に不思議そうな顔で問うた。「俺は、自らの才覚ゆえに、常に孤独だった。俺の描く世界を、誰も理解しようとはしなかった。父も、兄も、そして魏の凡庸な重臣たちも。彼らは皆、過去の栄光と、旧弊な秩序にしか興味がない。だが、君は違う」

 彼の声に、初めて熱がこもった。

「君のあの水計、あの交易路の構想……。君は、既存の枠組みを破壊し、新たな価値を創造する力を持っている。君だけが、俺と同じ地平を見ることができる。俺の魂を、その本当の意味で理解できる、唯一の女だ。俺の隣で、この退屈な世界を、共に塗り替えようとは思わないか?」

 その言葉は、野心に満ちていたが、その根底には、誰にも理解されない天才の、深い深い孤独感があった。

 玉蘭は、初めて、目の前のこの男を、ただの敵将としてではなく、一人の人間として見た気がした。

 だが、それでも。

 彼女は、静かに首を横に振った。

「鍾会将軍。貴方様のおっしゃることは、理解できます。貴方様のその孤独も、痛みも。ですが、貴方様とわたくしでは、見ているものが、根本的に違うのです」

「何が違う」

「貴方様が見ているのは、大陸という巨大な盤面と、その上にある『未来』。ですが、わたくしが見ているのは、もっとずっと小さいもの。この大地に根を張り、生きている、名もなき民一人一人の『現在いま』の顔です」

 玉蘭は、窓の外に視線を向けた。

「わたくしが欲しいのは、大陸などという、果てしないものではございません。わたくしが欲しいのは、たった一つ。わたくしが心から愛した、あの南の小さな土地の平穏と、そこで暮らす人々の、ささやかな笑顔だけでございます」

 その、あまりにも気高く、そして自分とは全く異なる価値観。

 鍾会は、その儚くも、決して屈しない美しさに、一瞬息を飲んだ。彼は今まで、欲しいものは全てその力で手に入れてきた。だが、目の前のこの女の魂だけは、どんな力をもってしても、手に入れることはできないのかもしれない。

 だからこそ、欲しかった。どうしようもなく。

「……そうか」と彼は、諦めたように言った。その瞳から、先ほどの熱がすっと消え、再び冷徹な支配者の光が宿った。「ならば、仕方がない。君のその愛する故郷と、君が愛する男が、我が魏軍の軍靴に踏み躙られるのを、この美しい鳥籠の中から、ただ見ているがいい」

 それは、優しい脅迫だった。玉蘭は、ぐっと唇を噛んだ。

 鍾会は、立ち上がると、部屋を出て行こうとした。

 その、彼の背中に、玉蘭は、静かに、しかし凛とした声を投げかけた。

「――貴方様は、お寂しい方なのですね」

 鍾会の足が、ぴたりと止まった。

「……何だと?」

「誰にも理解されず、ただ一人で、高みを目指す。その道は、さぞかし寒く、そして孤独なことでしょう。貴方様は、わたくしに、ご自分と同じ魂を見たと仰った。ですが、それは間違いです。わたくしは、一人ではございません。わたくしの心は、常に、建寧の民と、そして……わたくしを待つ、たった一人の男と共にあります」

 その言葉は、鍾会の、最も触れられたくない心の傷を、容赦なく抉った。

 彼は、何も言わずに、ただ拳を強く握りしめた。

 そして、一度も振り返ることなく、幕舎から出て行った。

 部屋に再び一人きりになった玉蘭は、大きく、息を吐いた。

 今の対話は、一つの賭けだった。彼をただの敵として拒絶するのではなく、その孤独に寄り添うふりをして、彼の心を揺さぶる。

(わたくしは、負けない……)

 彼女は、窓の外の空を見上げた。

(必ず、あなたの元へ帰るわ、姜維…)

 囚われの皇女は、見えざる檻の中で、静かに、そして確かに、反撃の牙を研ぎ澄ましていた。彼女の武器は、剣でもなければ、兵でもない。人の心を読み、揺さぶる、その知性と、そして決して屈しない、誇り高い魂そのものだった。

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