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第27話:勝者の孤独、敗者の絶望

第27話:勝者の孤独、敗者の絶望

 劉玉蘭という鮮烈な光が戦場から忽然と消え失せてから、数日が過ぎた。

 泥の海はようやくその水嵩を減らし、剣閣の谷には、ただ生々しい死の痕跡と、敗残兵たちの重い重い沈黙だけが残されていた。蜀漢軍は、この戦いに辛うじて勝利した。だが、その勝利の代償は、あまりにもあまりにも大きかった。そして、本当の戦いは、これから始まろうとしていた。


 ***

 魏の陣中。若き参謀・鍾会の幕舎は、張り詰めた、殺意にも似た緊張感に包まれていた。

 彼の前に引きずり出されたのは、顔面蒼白の総大将・鄧艾と、その腹心の将たちだった。


「……鍾会、貴様、何のつもりだ!」鄧艾が怒りに声を震わせる。

「何のつもり、ですと?」鍾会は、涼しい顔で答えた。「私はただ、敗戦の責任の所在を、明らかにしようとしているだけですよ」

 彼は、一枚の羊皮紙を広げてみせた。

「これは、貴方が本国へ送ろうとしていた戦況報告書ですな。『敵の妖術により、我が軍は多大な損害を被ったが、敵の将である皇女を捕虜とすることに成功せり』と。実に、見事な言い訳だ」

「事実を述べたまでだ!」

「では、お聞きするが、鄧艾将軍。貴方は、この私が止めるのも聞かず、兵の命を惜しんで早々に撤退を指示された。違いますかな? そして、その混乱の最中、貴方の命令ではなく、私の部隊が、独断で姫を捕らえた。これもまた、事実」

 鍾会は、冷ややかに続けた。

「つまり、この戦の敗北の責任は、撤退を命じた総大将である貴方にある。そして、姫を捕らえたという唯一の手柄は、貴方のものではなく、この私にある。この論理、お分かりになりますかな?」

「なっ…! 貴様、俺を嵌めたのか!」

「人聞きの悪い。私はただ、事実を整理しただけですよ」

 鍾会は衛兵に合図を送った。

「この者を捕らえよ。敗戦の責任、及び、手柄を偽って本国に報告しようとした欺瞞の罪。その罪状をもって、本国へ送還する」

「おのれ、鍾会……! この老獪な若造めが……!」

 罵声を浴びせる鄧艾を冷たく見下ろし、鍾会は静かに告げた。

「ええ。戦場で必要なのは、経験だけではございません。…かの姫の身柄は、この私が直々に預かります」


 こうして、老練な現実主義者は、常識外れの天才の、冷徹な策略によって、その座を追われた。鍾会は、玉蘭という最大の交渉カードを、完全に自らの手中に収めたのだ。彼の目的は、もはや蜀漢との戦争の勝利ではない。劉玉蘭という女を手に入れること、ただその一点に収束していた。


 ***

 一方、その頃。

 蜀漢の都、成都では、若き丞相・諸葛瞻が、一枚の巨大な大陸地図を前に、夜も眠らず思考を巡らせていた。

 剣閣での辛勝と、そして、玉蘭拉致という最悪の凶報。その二つが届き、朝議は大混乱に陥っていた。大将軍・費禕ら北伐に批判的な穏健派は「皇女一人のために、これ以上国力を消耗させるわけにはいかぬ」と援軍の派遣に強く反対。宦官・黄皓の一派はこれを好機と見て「そもそも皇女が勝手な行動を取ったのが原因」と世論を煽り、援軍派遣の議論を徹底的に妨害していた。

(…愚か者どもめ。問題の本質は、皇女一人の命ではない。劉玉蘭という、蜀の未来を左右しかねない『戦略兵器』が、敵国に渡ったという事実だ…)

 彼の怜悧な頭脳は、既に次の一手を計算し始めていた。


 そんな絶望的な状況の中、一人の男が成都へと帰還した。

 衛将軍・姜維。

 彼は、生き残った兵を再編すると、休む間もなく大将軍・費禕の元へ、玉蘭救出の軍を発してくれるよう直談判に及んだ。だが、費禕は「これ以上の北伐は許さん」の一点張りで、彼の訴えは無情にも一蹴された。

 万策尽きた姜維は、夜の闇の中、ただ一人、丞相府の門を叩く。彼に残された最後の望みは、あの若く、そして底の知れない丞相の決断に、全てを賭けることしかなかった。

 愛する女を救い出すため、一人の将軍が、そのプライドを捨て、頭を下げようとしていた。その先に待ち受けるのが、さらなる屈辱と非情な取引であることを、彼はまだ知らない。

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