第26話:泥中の再会、束の間の絶望
第26話:泥中の再会、束の間の絶望
剣閣の谷を埋め尽くした濁流が、ようやくその勢いを弱め始めた頃。
辛うじて難を逃れた高台では、魏の二人の将が、眼下に広がる地獄絵図を前に、全く異なる反応を見せていた。
総大将・鄧艾は、百戦錬磨の老将らしく、兵の損耗を第一に憂い、即座に全軍撤退の銅鑼を鳴らすよう命じた。
「…参ったな。完全にやられた。これ以上の戦闘は無意味だ。兵を見殺しにはできん」
「お待ちください、鄧艾将軍!」
その手を、若き参謀・鍾会が掴んだ。その瞳は、絶望ではなく、狂気に近い興奮に輝いている。
「まだです! 敵の策源地は、あの丘の上にいる赤髪の姫君! あの女さえ捕らえれば、我々の勝利は揺るがない!」
「馬鹿を言え!」鄧艾は一喝する。「兵は既に戦意を喪失している! これ以上は無益な犠牲が増えるだけだ! 総大将として、退くと言ったら退くのだ!」
「兵など、補充すればよい! ですが、あれほどの『宝』は、二度と手に入りませぬぞ!」
現実主義の老将と、危険な理想を追う天才。二人の意見は、完全に対立した。
その頃、蜀漢軍は、敵の大混乱に乗じて死の包囲網を突破し、丘の上で待つ玉蘭の義勇部隊との合流を果たしていた。
「玉蘭……!」
泥まみれの姜維が、馬から転がり落ちるようにして彼女の元へ駆け寄る。
だが、再会の喜びも束の間、玉蘭は、泥の海と化した谷底で、今まさに力尽きていく無数の兵士たちの姿に、言葉を失っていた。助けを求める彼らの絶望の叫びが、風に乗って、彼女の耳に直接突き刺さる。
「わたくしは……わたくしが、この地獄を……?」
彼女の顔から血の気が引き、その場に崩れ落ちそうになる。その震える体を、姜維が力強く支えた。
「なぜだ、なぜ、こんな無茶を……! 馬鹿者っ!」
彼の声は、彼女の無謀を叱責しながらも、その魂が今まさに砕け散ろうとしているのを、痛いほど感じ取っていた。
高台の上で、鍾会は鄧艾の制止を振り切ると、自らの懐から取り出した小さな指令書を、影のように控えていた配下の特殊部隊の長に手渡した。それは、総大将の命令を無視した、彼の独断だった。
(あの姫を手に入れる好機は、今しかない…!)
姜維の腕の中で震える玉蘭。その足元で、泥の中に潜んでいた数条の黒い影が、音もなく立ち上がった。
「玉蘭ッ! 伏せろ!」
姜維が叫び、反射的に彼女を背後にかばう。
だが、敵の目的は戦闘ではなかった。彼らが投げた黒い鉄の玉が甲高い音を立てて破裂し、視界を奪う濃い黒煙が辺りを包む。
「くっ……! 煙幕か!」
姜維が怯んだ一瞬の隙を突き、煙の中から数本の吹き矢が放たれた。その一本が、玉蘭の腕をちくりと掠める。
「……っ!」
急速な痺れと共に、玉蘭の意識は、深い闇へと沈んでいった。
煙の中から現れた黒い影が、ぐったりとなった彼女を担ぎ上げ、去っていく。
「待てっ!」
姜維の絶叫が、虚しく谷に響いた。
煙が晴れた時、戦場には、愛する女を目の前で奪われた、一人の将軍の、獣のような咆哮だけが残されていた。
そして、高台の上では、鍾会が「我が手へ来たれ、赤き龍よ」と、悦に入った表情で、その光景を見下ろしていた。
戦争は、終わっていない。
否。
今、この瞬間から、本当の戦争が始まるのだ。
一人の女の身柄を巡る、二人の英雄の、私的な、そして何よりも熾烈な戦いが。