第25話:血河の悪魔、水禍の計
第25話:血河の悪魔、水禍の計
北へ。
玉蘭率いる建寧の義勇部隊は、昼夜を問わず馬を駆った。道なき道を駆け、険しい山を越え、彼らは驚異的な速さで北上を続けた。彼らを突き動かしているのは、ただ一点、「英雄を死なせるな」という、原始的で、しかし何よりも強い想いだった。
数日間の眠らない強行軍の末、彼らはついに剣閣が遠くに見える丘陵地帯へとたどり着いた。
馬を降り、身を潜めながら丘の稜線から眼下を覗き込んだ時、玉蘭は息を飲んだ。
そこに広がっていたのは、まさに阿鼻叫喚の地獄の光景だった。
谷間を埋め尽くす、魏軍の夥しい数の幕舎。その中心にある、袋の鼠となった小さな岩山に、姜維たちの、傷だらけの龍の紋章の旗が、かろうじて翻っている。魏軍は、無理に攻めることはしない。ただ、じりじりと包囲網を狭め、彼らが飢えと渇きで自滅するのを、まるで狩りを楽しむかのように待っていた。
玉蘭の、その翠玉の目は、遠眼鏡越しに、岩山の上で指揮を執る、疲れ切った姜維の姿を確かに捉えた。彼の周りの兵士たちは、もはや半数以下に減っているように見える。全滅は、もはや時間の問題だった。
(…間に合ったわ)
玉蘭は、唇を強く噛みしめた。ここからが、本番だ。
彼女は、部隊を二つに分けた。孟安が率いる屈強な若者たちの別動隊。そして、彼女自身が率いる陽動部隊。
「いいこと、孟安。合図を送ったら、何があっても、あの岩山に兵糧を届けるのよ。あなたたちの任務は、それだけ。決して、深追いしてはだめ」
「…姫様こそ、無茶はするなよ」
孟安は、彼女の瞳に宿る、尋常ならざる光を見て、不安げに言った。
玉蘭は、彼に力なく微笑みかけた。
「大丈夫よ。…わたくしは、もう失うものなど、何もないのだから」
風向きが変わった。山から谷へと、強い風が吹き下ろし始めた。
「……今よ」
玉蘭の声が、静かに響いた。
「まずは陽動よ! 投げぇっ!!」
彼女が率いる部隊が、丘の上から、魏軍の陣営のど真ん中へと、一斉に赤い布袋を投げ込んだ。投石器を使った、正確無比な一撃だった。
布袋が地面に叩きつけられ、破裂する。
次の瞬間、戦場に、真っ赤な、そして鼻を突くような刺激臭を放つ煙が、もうもうと立ち込めた。唐辛子と石灰を混ぜて作られた、建寧特製の「目潰し弾」だ。
風下の魏軍の陣営は、一瞬にして大混乱に陥った。
「な、なんだ、これは!?」
「目、目がぁっ! 痛くて開けられん!」
「ぐ、げほっ、げほっ! 咳が、止まらん…!」
鉄壁を誇っていたはずの魏軍の陣形は、たった一瞬にして、統制を失った烏合の衆と化した。
「行けぇっ! 孟安!」
その大混乱の隙を突いて、孟安率いる別動隊が、山の側面から、疾風のように駆け下りた。彼らは、咳き込みうずくまる魏兵たちの間をすり抜け、一直線に姜維たちが孤立する岩山へと、命がけで兵糧を届けた。
「将軍! 姫様からです!」
届けられた干し肉と水を、飢えた兵士たちが、涙ながらにむさぼる。
これで、数日は持ちこたえられる。
だが、玉蘭の策は、これで終わりではなかった。
これは、本当の目的を隠すための、壮大な布石に過ぎない。
煙幕の効果が薄れれば、数で圧倒的に勝る魏軍は、すぐに体勢を立て直し、再び包囲網を完成させるだろう。
玉蘭は、第二の、そして真の切り札を切ることを決意した。彼女は、この策が、多くの命を、敵も味方も関係なく奪う、非情なものであることを理解していた。その罪を、その地獄を、この身一つで背負う覚悟で、唇を血が滲むほど強く噛みしめた。
(お父様…丞相閣下…そして、姜維…)
(わたくしは、漢の皇女としてではなく、ただ一人の女として、愛する男の、そして彼が守ろうとする未来を守る。そのために、わたくしは、悪魔になる)
彼女は、空に向かって、赤い狼煙を上げた。
それは、この剣閣の谷を見下ろす、北の山中に潜む、ただ一人の男にだけわかる、秘密の合図だった。
剣閣から半日ほど離れた、鬱蒼とした森の奥。
そこには、かの諸葛亮が築き、その後忘れ去られていた、古の堰があった。
玉蘭の指示を受け、数ヶ月前からこの地でダムの機能を回復させていた建寧の老棟梁は、北の空に上がった、細く、しかし確かな赤い狼煙を認めると、涙を流しながら、天に向かって手を合わせた。
「『この水は、民を守る盾にも、国を滅ぼす矛にもなる。その使い方は、お前だけに託す』…姫様のあの時の言葉、このわしは、決して忘れませぬ。姫様…どうか、ご無事で…」
そして、彼は、数人の信頼できる男たちと共に、古文書に記された通りに、最後の水門を開放するための、巨大な仕掛けのレバーを、力いっぱい引き倒した。
数ヶ月かけて山々の雪解け水を溜め込んだ膨大な水量が、堰を切ったように、ただ一つの谷筋――魏軍が密集する剣閣の谷底へと、牙を剥いた。
ゴオオオオオッという地鳴りのような轟音が、剣閣の谷に響き渡った。
何事かと、混乱していた魏兵たちが顔を上げる。
彼らが見たのは、山の向こうから、白い牙を剥き出しにした巨大な龍のように、壁となって迫り来る、濁流だった。
悲鳴を上げる間もなかった。
魏軍が密集する谷底は、瞬く間に、泥の海と化した。重装備の魏兵たちは、なすすべもなく濁流に飲み込まれ、馬も、幕舎も、兵器も、全てが巨大なミキサーにかけられたように、茶色い奔流の中へと消えていった。