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第24話:決断の狼煙、集う義勇

第24話:決断の狼煙、集う義勇

建寧の空気は、重かった。

 豊かになったはずの村は、疑心暗鬼と、都から来た役人たちへの不満で、澱んでいる。玉蘭が帰還して数日が経ったが、民との間の見えない壁は、溶けるどころか、ますます厚くなっていくようだった。彼女が何を言っても、彼らの目には「都の人間」「丞相の手先」というフィルターがかかって見えている。

 玉蘭は、底なしの無力感に苛まれていた。

 彼女は、毎晩、北の空を見上げた。そこに、いるはずの男を想いながら。

(姜維…あなただけが、わたくしの心を、本当の想いを、理解してくれていた…)

 彼を失うことの恐怖。そして、彼さえいれば、この全ての苦境を乗り越えられるはずだという、盲目的なまでの想い。その二つが、彼女の中で、危険な熱を帯びて膨れ上がっていった。

 そんなある日の昼下がり。

 建寧郡の青い空に、一羽の、力尽きそうな傷ついた伝書鳩が舞い降りた。

 それは、軍用の伝書鳩ではなかった。姜維の部下で、最後の力を振り絞って鳩を放った兵士。その足には、油紙に包まれた、小さな小さな紙片が結びつけられていた。

 玉蘭が、震える手でその紙片を広げると、そこには、血で書かれたかのような、走り書きの文字が記されていた。

『――剣閣にて、我が軍、壊滅の危機。姜維将軍、敵の卑劣な罠にはまり、谷間に孤立。食料尽きかけ、もはやこれまでか……。都の朝議は、費禕様を中心とする穏健派の反対と、黄皓派の妨害により、公式な援軍の派遣決定が難航している模様。何卒、何卒、姫様、ご無事で……』

 文字が、ぐにゃりと歪んで見えた。

 一瞬、呼吸が止まる。

 全身の血が、一瞬にして凍りつく。

 彼が、死んでしまう。

 罠にはまり、飢え、見殺しにされようとしている。

 その、あまりにも残酷な情景が、彼女の脳裏に、鮮明に映し出された。

 その瞬間。

 彼女の中で、今まで自分を縛り付けていた、全てのものが、粉々に砕け散った。

 民との溝も、丞相との取引も、皇女としての立場も、もはやどうでもよかった。

 ただ一つ、絶対的な事実だけが、彼女の魂を灼いた。

 彼を、失いたくない。

(待っているだけなんて、もうごめんだわ……!)

 彼女の翠玉の瞳から、それまでの絶望の色が、嘘のように消え去った。その代わりに宿ったのは、全てを焼き尽くすかのような、狂気にも似た、烈しい決意の炎だった。

(都が助けぬのなら、わたくしが行く)

(丞相が見殺しにするのなら、わたくしが救う)

(この蜀漢の誰も彼を助けに行かないというのなら、このわたくしたちが、彼を助け出してみせる!)

 その決意は、あまりにも無謀で、正気の沙汰ではなかった。

 だが、今の彼女には、それ以外の道は見えなかった。

 彼女は、館に備え付けられていた、古い古い青銅の鐘を、その小さな手で、狂ったように打ち鳴らした。

 ゴォン、ゴォン、と、錆びついた、しかし重い音が、建寧の村中に響き渡る。それは、非常事態を告げる合図。

 何事かと、民たちが、都から来た役人たちも、武器を手に広場へと集まってきた。

 その群衆の前に、玉蘭は、一人、すっくと立った。

 その姿は、もはや憔悴した姫君のものではない。燃えるような赤髪を振り乱し、その瞳に尋常ならざる光を宿した、まるで戦の女神ワルキューレのようだった。

「みんな、聞いてちょうだい!」

 彼女は、戦況を、姜維の窮状を、ありのままに、飾ることなく人々に伝えた。

「衛将軍・姜維と、その兵たちは、わたくしたちのこの平和を守るために、遠い北の地で、命をかけて戦ってくれているわ! その彼らが今、見殺しにされようとしている! わたくしは……わたくしは、それが許せない!」

 彼女は、涙をこらえ、叫んだ。

「わたくしは今から、北の戦場へ向かいます。彼らが、わたくしたちの英雄が、飢えて死ぬのを、黙って見ていることなど、断じてできないから!」

 民たちは、どよめいた。「無茶だ!」「我々に何ができる!」「それは国軍の仕事だ!」という声が上がる。

 都から来た役人の長が、前に進み出た。

「なりませぬ、玉蘭様! そのような勝手な行動は、丞相閣下への反逆と見なされますぞ!」

「黙りなさい!」

 玉蘭は、雷鳴のような声で一喝した。

「机上の空論をこね、私腹を肥やすことしか考えぬ、あなたたちのような男に、何がわかる! わたくしは、もはや誰の指図も受けない! わたくしは、わたくしの意志で、わたくしが守りたいものを、守る!」

 その、あまりの気迫に、役人たちはたじろいだ。

 広場が、静まり返る。

 その沈黙を破ったのは、孟安だった。

 彼は、ゆっくりと前に進み出ると、玉蘭の前に、その大きな体を屈した。

「……あんたは、やっぱり、都の人間じゃねえな」

 彼は、顔を上げた。その瞳には、以前のような疑心暗鬼の色はなく、深い敬意と、そして共感の光が宿っていた。

「…いいぜ。付き合ってやるよ、あんたのその、途方もねえ馬鹿げた喧嘩に。忘れたわけじゃねえだろ、お前ら! あの嵐の夜、俺たちの畑と村を、命がけで守ってくれたのは誰だ! 都の役人か!? 違う! 姜維将軍と、その兵隊さんたちだ! その恩を、俺たちはまだ返してねえだろうが!」

 彼が、自らの錆びついた剣を抜き、天に突き上げた。

「俺たちの姫様を、俺たちの英雄を、見殺しにされてたまるか! 行くぞ、お前ら!」

 その声が、引き金になった。

「そうだ!」「孟安の言う通りだ!」「俺も行く!」「俺たちの食いもんは、俺たちで届ける!」

 建寧の男たちが、次々と雄叫びを上げた。彼らの心に、忘れかけていた誇りと、義侠心の炎が、再び燃え上がったのだ。彼らを動かしたのは、国への忠誠ではない。ただ、一人の、自分たちと共に泥にまみれた姫と、自分たちを守ってくれた将軍への、「義」であった。

 玉蘭の明晰な頭の中には、一つの、二段構えの奇策が閃いていた。それは、都で諸葛瞻と議論を重ね、そして建寧の治水システムの設計図を眺めるうちに、密かに練り上げていた、禁断の策だった。

 男たちは、彼女のその的確な指示のもと、徹夜で準備を進めた。

 大量の干し肉と水。そして、赤珠果と薬草、唐辛子や石灰を混ぜて乾燥させた、強烈な刺激と匂いを放つ、赤い煙幕・目潰し弾。それは、彼女が密かに開発していた、害獣駆除のための道具だったが、今やそれは、強力な非殺傷兵器と化していた。

 翌朝、夜明けと共に。

 玉蘭は、建寧の屈強な男たちを率いて、即席の「決死の補給部隊」として、北の戦線へと出発した。

 彼女は、馬上で、一度だけ、自分が築き上げた水路の方を振り返った。

(待っていて、姜維。わたくしが、必ず、あなたを助け出す。たとえ、この手が、どれほどの罪に汚れようとも……)

 彼女の旅立ちは、愛する男を救うための義挙であると同時に、自らが修羅の道へと足を踏み入れる、後戻りのできない、運命の狼煙だった。

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