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第23話:故郷の変貌、見えざる亀裂

第23話:故郷の変貌、見えざる亀裂

 南へ向かう旅路は、玉蘭の心を焦燥で満たしていた。

 都での息の詰まるような日々。丞相との心理戦。そして、姜維との痛ましいすれ違い。それら全てから解放され、早く、一刻も早く、あの土の匂いがする、自分の居場所へと帰りたかった。孟安からの手紙にあった、民の不信の声。それも、自分が帰れば、顔と顔を合わせ、話をすれば、きっとすぐに解けるはずだ。彼女は、そう信じていた。

 数週間にわたる旅の果て、ついに建寧の、見慣れた山々が見えてきた。

 だが、郡都の村へ続く街道に差し掛かった時、玉蘭は、最初の違和感に気づいた。

 街道の入り口に、真新しい、立派な関所が設けられている。そして、そこには都から派遣されたのであろう、見慣れない役人たちが、横柄な態度で荷馬車を取り調べていた。

「これは、一体……?」

 玉蘭の馬車が近づくと、役人の一人が、面倒くさそうに顔を上げた。

「止まれ、止まれ。荷を改める。これは、都への上納品か? ならば、定められた通り、関銭を支払ってもらおう」

 その高圧的な態度に、供の者が慌てて前に出る。

「無礼者! こちらにおわすは、この建寧の太守代行、劉玉蘭様にましますぞ!」

 その言葉に、役人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに鼻で笑った。

「ほう、これはこれは、姫様でございましたか。失礼をば。ですが、これも丞相閣下からのご命令。この地の産品を正しく管理し、税を徴収せよ、と。たとえ姫様とて、例外ではございません」

 玉蘭は、言葉を失った。

 丞相の支配は、既にここまで及んでいたのだ。自分が都にいる間に、この土地は、もはや自分だけのものではなくなっていた。

 重い気持ちのまま、村へと入った彼女を、さらなる光景が打ちのめした。

 村は、活気に満ちていた。以前とは比べ物にならないほど、多くの人々が行き交い、新しい店が軒を連ねている。だが、その活気は、どこか空虚で、よそよそしいものに感じられた。

 行き交うのは、都から来た商人や、一攫千金を狙う流れ者たち。彼らは、この土地の未来ではなく、目の前の「赤珠果」という金蔓にしか興味がない。

 そして、何よりも玉蘭の胸を締め付けたのは、村人たちの、自分に向ける視線だった。

 以前のような、親しみを込めた眼差しではない。どこか遠慮がちで、壁を感じさせる、よそよそしいものに変わっていた。彼らは、玉蘭に気づくと、慌てて道を開け、深々と頭を下げる。だが、その目には、以前のような信頼の光はなかった。

 太守の館に戻ると、董和と孟安が出迎えた。

「姫様! よくぞ、ご無事で…!」董和は涙ながらに駆け寄った。

 だが、孟安の態度は、どこか硬かった。

「……お帰りなせえまし、姫様」

 彼は、以前のように軽口を叩くこともなく、ただ深々と頭を下げるだけだった。

 その夜、玉蘭は二人から、この数ヶ月の間の建寧の変貌について、詳しい報告を受けた。

 赤珠果は、都で莫大な富を生んだ。村は豊かになった。だが、その富は、新たな争いの火種を生んでいた。都から来た商人たちは、より多くの利益を得ようと、村人たちを巧みに競わせ、買い叩こうとする。村人たちの間でも、より多くの畑を持つ者と、持たざる者との間に、貧富の差が生まれ始めていた。

 そして、都から派遣された役人たちは、「丞相閣下のご威光」を盾に、横暴な振る舞いを繰り返し、民の不満は日に日に高まっているという。

「俺たちは、あんたを信じてた」

 孟安が、初めて、その胸の内を吐き出した。その声は、怒りというよりも、深い悲しみに満ちていた。

「あんたが帰ってくれば、また昔みたいに、俺たちと一緒に汗を流して、この土地を守ってくれるんだって。だが、あんたは都の人間になっちまった。丞相閣下とかいう、偉いさんの言いなりになって、俺たちから富を吸い上げる、今までの役人たちと、同じだ」

「違う!」玉蘭は、思わず叫んだ。「わたくしは、あなたたちを守るために……!」

「守る、だと?」孟安は、自嘲するように笑った。「今のこの村のどこに、あんたが守りたかったものがあるってんだ? 俺たちが欲しかったのは、金じゃねえ。ただ、みんなで笑って、今日の飯が食える、ささやかな暮らしだったはずだ。だが、今のこの村は、金と、欲望と、妬みで、ぐちゃぐちゃだ」

 孟安の言葉の一つ一つが、鋭い刃となって、玉蘭の心を切り刻んだ。

 良かれと思ってやったことが、全て裏目に出ていた。

 民を豊かにしようとした結果、彼らの心を貧しくしてしまった。

 都の力を借りて民を守ろうとした結果、彼らを新たな支配の下に置いてしまった。

 そして、何より、彼らとの間に、見えない、しかし決して越えることのできない、心の溝が生まれてしまっていた。

 その夜、玉蘭は一人、自らが設計した水路を見に行った。

 水路は、ほぼ完成に近づいていた。月明かりの下、静かに水を湛えるその姿は、美しく、そしてどこか不気味ですらあった。

 これが、わたくしが築き上げたもの。

 民の生活を潤す、希望の象徴。

 だが、それは同時に、丞相に魂を売り渡すきっかけとなった、呪いの象徴でもあった。

 そして、使い方を誤れば、多くの命を奪う、恐ろしい兵器にもなり得る。

(わたくしは、一体、何を守りたかったのだろう……)

 故郷に帰ってきたはずなのに、彼女の心は、都にいた時以上に、深い孤独に包まれていた。

 北の戦場では、愛する男が死の淵を彷徨っている。

 そして、この故郷では、信じてくれたはずの民の心が、自分から離れていこうとしている。

 彼女は、まるで、全世界から一人だけ、切り離されてしまったかのような、底なしの絶望を感じていた。


 その時、彼女の脳裏に、都にいる父・劉禅の、あの疲れた顔が浮かんだ。

 父は、国を守ろうとした。だが、そのやり方は、結局のところ、わたくしを政争の駒として差し出すことだった。

 若き丞相・諸葛瞻は、国を富ませようとした。だが、そのやり方は、建寧の民の心を、都の価値観で塗りつぶし、新たな支配を生み出すことだった。

 彼らは皆、「国」や「漢室」という、大きなものを守ろうとしている。だが、そのために、目の前にいる一人一人の民の、そのささやかな暮らしや、誇りが、踏み躙られていく。


 (――もう、たくさんだわ)


 玉蘭の中で、何かが、静かに、しかし決定的に変わった。

 (わたくしが守るべきは、『蜀漢』という名の、もはや実体のない幻ではない。ましてや、わたくしに流れる『神の血』などという、呪いのようなものでもない)

 彼女は、自らの手のひらを見つめた。泥にまみれ、豆の潰れた、硬い手。

 (わたくしが守りたいのは、この手で土を耕し、この土地で笑い、泣き、そして生きている、名もなき民、ただ一人一人の命。彼らの暮らし。彼らの平和。それだけだ)

 たとえ、そのために、父の国と刃を交えることになったとしても。

 たとえ、そのために、皇女という立場を、完全に捨て去ることになったとしても。


 わたくしは、もう蜀漢の皇女ではない。

 わたくしは、この建寧の民と共に生きる、ただの劉玉蘭なのだ。


 だが、そのあまりにも重い決意を、この身一つで支えるには、彼女はあまりにも若く、そして孤独だった。

 (でも、どうすれば……? わたくし一人に、一体何ができるというの……?)

 絶望が再び彼女の心を覆い尽くそうとした、その時。彼女の脳裏に、あの男の、不器用で、しかし誰よりも真摯な眼差しが浮かんだ。


 (姜維……)


 そうだ。わたくしは、一人ではない。

 彼がいる。彼さえいてくれれば。彼だけは、わたくしのこの想いを、きっと理解してくれるはず。


 守るべきは、この土地の民。

 そして、守りたいのは、ただ一人の男。


 その二つが、彼女の中で、一つの、燃え盛るような巨大な想いへと変わった。

 彼女の翠玉の瞳の奥で、静かに、しかし確かに、全てを焼き尽くす覚悟の炎が、その最初の火花を散らした。

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