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第22話:待つ女、立つ皇女

第22話:待つ女、立つ皇女

 姜維率いる黒鎧の兵団が、北の地平線へと消えてから、一ヶ月が過ぎた。

 成都の空気は、まるで何もなかったかのように、平穏な日常を取り戻していた。貴族たちは相も変わらず宴に興じ、市井は日々の営みに追われている。だが、玉蘭の心は、一日たりとも晴れることはなかった。彼女の心は常に、遠い遠い北の、血煙の戦場にあった。

 毎朝、彼女は夜明けと共に起き、北の空に向かって、彼の無事を祈った。それは、もはや儀式となっていた。そして、日が暮れるまで、丞相府から与えられた自室で、北からの知らせを、ただひたすらに待ち続けた。

 戦況を伝える公式な報告は、数日に一度、丞相府からもたらされる。だが、その内容は常に曖昧で、要領を得ないものばかりだった。「剣閣にて膠着状態」「一進一退の攻防続く」。その無味乾燥な文字の裏で、どれほどの血が流れているのか。そして、その中に、彼がいるのかいないのか。彼女には、何もわからなかった。

 「待つ」ということが、これほどまでに心を苛む拷問であるということを、玉蘭は生まれて初めて知った。

 そんな彼女の苦悩とは裏腹に、都における彼女の立場は、日に日に奇妙な形で変化していた。

 丞相・諸葛瞻は、彼女を頻繁に自らの執務室へと呼び出した。だが、そこで交わされるのは、もはや建寧の未来についてではない。蜀漢全体の、兵站、経済、そして来るべき戦後を見据えた国家戦略についてだった。

「玉蘭様。君の、あの交易路の構想、実に興味深い。これを、南中だけでなく、蜀全体の産業基盤として再構築することはできぬか?」

「剣閣の戦いが長引けば、国庫はさらに疲弊する。君ならば、この状況を打開する、新たな財源をどこに見出す?」

 彼は、彼女を試していた。そして、育てていた。自らの右腕となる、有能な為政者として。

 玉蘭は、彼の期待に応えるように、その明晰な頭脳をフル回転させた。諸葛亮が遺した古文書の知識と、建寧での実践経験を元に、次々と斬新な提案を繰り出す。その時間は、彼女の個人的な不安を、一時的に忘れさせてくれる唯一の救いでもあった。

 だが、その一方で、彼女は気づいていた。自分が、丞相の描く巨大な国家という盤面の上で、ますます重要な「駒」としての役割を与えられていることに。そして、その役割が大きくなればなるほど、建寧という、彼女が帰るべきささやかな場所が、遠くなっていくような気がしてならなかった。

 そんなある日、玉蘭の元に、建寧から一通の書簡が届いた。差出人は、孟安だった。彼の、武骨で、拙い文字で、こう記されていた。

『姫様。お元気でお過ごしか。こっちは、あんたの言いつけ通り、赤珠果の世話も、水路の普請も、ちゃんとやってる。だが、近頃、都から来た役人たちが、やれ税だの、やれ供出だのと、うるさく言ってくる。あんたが俺たちと約束したことと、話が違うじゃねえか。一体、どうなってるんだ。姫様は、本当に、俺たちの元へ帰ってきてくれるのか』

 その、飾り気のない、しかし切実な問いが、玉蘭の胸を強く打った。

 民たちが、疑い始めている。わたくしが、彼らを見捨てて、都の権力に寝返ったのではないかと。

 姜維の、あの失望に満ちた瞳が、脳裏をよぎった。

(わたくしは、何を、しているのだろう……)

 玉蘭は、唇を強く噛みしめた。

 このままではいけない。都で、丞相の駒として飼い殺されている場合ではない。わたくしは、わたくし自身の力で、この状況を打開し、民との約束を果たさなければならない。そして、彼が帰ってくる場所を、守り抜かなければ。

 その夜、彼女は、再び諸葛瞻の執務室の扉を叩いた。

「丞相閣下。一つ、お願いがございます」

 彼女の瞳には、もはや迷いはない。再び、あの辺境の地で戦っていた頃の、強い意志の光が宿っていた。

「なんですかな、玉蘭様」諸葛瞻は、興味深そうに彼女を見つめた。

「わたくしを、建寧へお帰しください」

「ほう。理由を聞こうか」

「建寧で進めておりました、水路の建設。その最終段階に、どうやら問題が生じているようなのです」

 それは、半分は本当で、半分は口実だった。

「あの治水システムは、わたくしにしか理解できぬ、複雑な構造をしております。わたくしが直接現地へ赴き、監督せねば、万が一、豪雨の際に大災害を引き起こしかねません。それは、国の兵站基地でもある南中の、大きな損失となりましょう」

 諸葛瞻は、しばらくの間、何も言わずに、ただ静かに彼女の顔を見つめていた。彼の慧眼は、彼女の言葉の裏にある、本当の意図を見抜こうとしているかのようだった。

 やがて、彼は、ふっと、息を吐いた。

「……よかろう」

 彼は、意外なほど、あっさりと許可を出した。

「君の言うことも、一理ある。それに、今の君を、都に縛り付けておくのも、得策ではあるまい。その翼が、籠の中で腐ってしまう前に、一度、大空へ放してやるのも良いかもしれんな」

 彼のその言葉の真意を、玉蘭は測りかねた。

「ただし」と、彼は付け加えた。「条件がある」

「……と、申しますと?」

「君が築き上げた、あの治水システム。その水源から河口に至るまで、全ての設計図と、運用方法を、丞相府に提出してもらいたい。国家の重要インフラとして、我々も把握しておく必要があるからな」

 それは、一見すると、もっともな要求だった。

(この人は、わたくしの切り札を…)

 玉蘭の脳裏に、まだ都へ発つ前、建寧で姜維と交わした密かな会話が蘇る。あの嵐の夜の後、互いに信頼を寄せ始めた頃、彼女は古文書に記された古代ダムの存在と、その恐るべき戦略的価値を彼にだけ打ち明けていたのだ。彼女は、父から託された古文書の中から、かの諸葛亮が南征の折に築き、その後忘れ去られていた「北の古代ダム」の存在と、その操作方法を解読していた。そして、その戦略的価値を姜維に打ち明けていたのだ。

『このダムを再利用すれば、平時は民を潤す恵みの水となり、有事には…敵の大軍を一気に飲み込む、恐るべき武器ともなり得る』

 その言葉を受け、姜維は彼女の計画を支援し、信頼できる技術者たちを密かに現地へ派遣していた。

(丞相に渡すのは、あくまで建寧の治水システムの図面。あの時、父から託された古文書の山の中から見つけ出した『北境治水要録』に記された、古のダムのことは、決して知られてはならない…幸い、父から託された『北境治水要録』の存在も、ダム修復のために姜維が密かに派遣してくれた、彼の私兵とも言える元部下の技術者たちの動きも、丞相の監視網はまだ掴んでいない。彼らの忠誠心だけが、わたくしの最後の切り札……)

 彼女は、丞相の冷徹な狙いを理解しつつも、自らの最大の切り札を隠すことを決意した。

「……承知、いたしました」

 玉蘭は、深く、深く、頭を下げた。

 その心中で、彼女は一つの決意を固めていた。

(丞相閣下。あなたに渡すのは、ただの設計図。ですが、その本当の『使い方』は、このわたくしの胸の中にだけ、しまっておきますわ)

 数日後、玉蘭は、数人の侍女や護衛だけを連れ、再び南への道を旅立った。

 彼女は、待つ女であることをやめた。

 自らの運命を、そして愛する者たちの未来を、その手で切り開くために。

 彼女は、再び、戦う皇女として、自らの領地へと帰っていく。

 その手には、後に大陸の運命を大きく揺るがすことになる、「水禍の計」という、恐るべき切り札を、誰にも知られず、静かに隠し持って。

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