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第21話:誓いの言葉、夜明けの出立

第21話:誓いの言葉、夜明けの出立

 夕暮れの光が、成都の城壁を赤く染めていた。

 城外に設けられた軍営は、出撃を間近に控え、鉄と汗と、そして言いようのない緊張感に満ちた匂いに包まれていた。兵士たちは、家族への最後の手紙を書き、武具の最終点検を行い、あるいはただ黙って、北の空を見つめていた。

 その喧騒の中心に、姜維はいた。

 彼は、自らの簡素な幕舎の前で、愛馬である黒捷こくしょうの鬣を、静かに梳かしていた。その横顔は、一切の私情を排した、蜀漢の衛将軍そのもの。彼の心は、既に遠い北の戦場、剣閣にあった。敵の配置、地形、兵站路。思考の全てが、これから始まる死闘へと注がれている。玉蘭との痛ましい諍いさえも、今は意識の彼方へと押しやっていた。いや、押しやろうと、必死に努めていた。

 その時だった。

 軍営の入り口が、にわかに騒がしくなった。衛兵の制止を振り切り、一人の女性が、息を切らしながらこちらへ向かってくる。

「……姫様?」

 部下の一人が、信じられないといった声を上げた。

 姜維がはっと顔を上げる。そこにいたのは、髪を乱し、肩で息をしながら、まっすぐに自分を見つめる、玉蘭の姿だった。彼女のその紺色の漢服は、道中で汚れたのか、裾が少し泥で汚れている。皇女にあるまじきその姿に、姜維は思わず目を見開いた。

 玉蘭は、彼の幕舎の前までたどり着くと、しばらく言葉を発することができなかった。ただ、ぜえぜえと苦しげに息を整えながら、彼の顔を、その目に焼き付けるかのように、じっと見つめていた。

 気まずい、重い沈黙が、二人の間に落ちた。周りの兵士たちは、何事かと遠巻きに見ている。

 先にその沈黙を破ったのは、玉蘭だった。

「……ごめんなさい」

 そのたった一言が、彼女の震える唇から、夕暮れの空気の中へとこぼれ落ちた。

「わたくしが、悪かったの。あなたの心を、あなたの過去の痛みを、理解しようともせずに……。ただ自分のプライドばかりを優先して、あなたを深く傷つけた。……本当に、ごめんなさい」

 彼女の大きな大きな翠玉の目から、堪えて堪えて堪えきっていた熱い後悔の涙が、堰を切ったように溢れ出した。

 姜維もまた、彼女のその涙に、心を激しく揺さぶられていた。

 彼が押し殺していたはずの、彼女への想いが、激情となって胸の奥から突き上げてくる。

「いや、違う。俺の方こそ……すまなかった」

 彼は、彼女の震える肩を、そっと両手で掴んだ。その手は、武骨で、硬い皮膚に覆われているが、驚くほど優しかった。

「俺は、自分の心の闇に負けた。過去の亡霊に囚われ、目の前にいる、信じるべき唯一の人間を、信じることができなかった。そなたを深く傷つけた。……俺は、最低の男だ」

 彼の声は、深い深い自責の念に震えていた。

 玉蘭は、彼のその苦しげな顔を見て、何度も首を横に振った。

「そんなことない! わたくしは……わたくしは、あなたが好きなのよ……!」

 それは彼女の生まれて初めての、何の計算も、何の駆け引きもない、魂からの叫びだった。

 彼女は、彼の硬い胸当てにその顔をうずめると、声を上げて泣きじゃくった。

「だから、行かないで……! お願いだから、わたくしを一人にしないで……!」

 それは決して言ってはならない言葉だった。国を守るために出撃する将軍に、かけるべき言葉ではない。だが、今の彼女には、そう言うことしかできなかった。愛する男を、死地へ送り出すことの恐怖が、彼女から全ての理性を奪っていた。

 そのあまりにも痛切な言葉に、姜維は、彼女を強く、強く抱きしめ返した。

 彼の鎧が、彼女の柔らかな頬に、冷たく食い込む。

「……玉蘭様」

 彼の声は、真剣で、そして絶対的な覚悟に満ちていた。

「俺は、死なん。死ぬために戦場へ行くのではない。帰ってくるために、戦うのだ」

 彼はそっと彼女の体を引き離すと、その涙で濡れた瞳を、まっすぐに見つめた。

「貴方が守ろうとした、あの建寧の民の笑顔のために。そして何よりも……この俺に好きだと言ってくれた、たった一人の女がいるこの場所へ、胸を張って帰ってくるために、俺は戦う。そのために、俺は鬼にも、修羅にもなろう」

 彼は、そっと彼女の涙を親指で拭うと、懐から小さな、古びた革のお守りを取り出した。それは、以前彼女が森で自分の部下を手当てした際に使った、彼女の木綿の服の、小さな切れ端だった。彼が、誰にも知られず、密かに縫い合わせて作ったものだ。

「これは、俺の魂だ。貴方がここにいる限り、俺の魂は死なない」

 玉蘭はそれを見てはっと息を飲むと、自らの懐から、急いで作ってきたであろう、まだ新しい薬草の匂いがするお守りを、震える手で彼に差し出した。中には、彼女が建寧で育てた赤珠果の、乾燥させた種が一つ、入っている。

「……わたくしの、魂も連れていって。これが、あなたを必ず、わたくしの元へ連れ帰ってくれるわ」

 姜維は、二つのお守りを、その大きな手で強く握りしめた。

 夜の帳が、完全に下りた。

 二人は、どちらからともなく、互いの顔を近づけた。

 周りの兵士たちが見ているのも、もう気にならなかった。

 二人の唇が、優しく、そして確かめ合うように重なった。それは甘いものではなく、互いの魂を交換するような、悲しく、そしてどこまでも神聖な誓いの儀式だった。

 夜が明ける。

 夜明け前のまだ星が瞬く薄闇の中、出撃の準備を完全に整えた黒鎧の兵団が、整然と整列していた。

 その先頭に立つ姜維の凛々しい姿を、玉蘭は丘の上からたった一人で見つめていた。

 彼女の目は、もう泣き腫らしてはいなかった。その美しい翠玉の瞳には、悲しみと不安と、そして愛する男を信じて待ち続けるという、強い強い決意の光が宿っていた。

「――出撃ッ!」

 姜維のその号令が、朝の冷たい清冽な空気を震わせた。

 一団は、地響きのような重い蹄の音と共に、北の血煙の戦場へと向かっていった。

 姜維は、一度だけ、丘の上に立つ玉蘭の姿を振り返ると、力強く頷いた。

 玉蘭は、その姿が見えなくなるまで、ずっとずっとその場に立ち尽くしていた。

 そして、心の中で何度も何度も、叫んでいた。

(……絶対、絶対に、無事に帰ってきなさいよ!)

(これは命令よ! あなたの主君として、そして……あなたのたった一人の女としての、絶対の命令なんだから……!)

 それは彼には決して届くことのない声。

 だが、二人の心は、この距離を超えて、確かに一つに固く結ばれていた。

 玉蘭の長い、そして孤独な戦いが、今始まった。

 愛する男の無事を祈り、彼の帰りをただひたすらに信じて待つという戦いが。

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