第20話:北の凶報、引き裂かれる二人
第20話:北の凶報、引き裂かれる二人
姜維にその心を無残にも踏みにじられてから、数日が過ぎた。
玉蘭と姜維の関係は、もはや冷たいという言葉では生ぬるい、完全な断絶状態にあった。二人は互いの存在そのものを、まるで存在しないかのように扱っていた。その空気は、周囲の侍女や兵士たちをも息苦しくさせ、皇宮の一角は、まるで葬儀のような重い沈黙に支配されていた。
玉蘭は、深く、深く傷ついていた。
(なぜ、あの男なのだろう)
頭では、彼の心ない言葉を許せないとわかっている。彼の不信を、憎らしくさえ思う。それなのに、心の奥底では、あの無骨な優しさも、国を憂う真摯な眼差しも、そして自分だけに見せてくれた苦しげな横顔も、何一つ忘れられずにいる。あの人の隣にいたい、と願ってしまった、あの夜の想いを、どうしても消し去ることができない。
こんな気持ちになるくらいなら、出会わなければよかった。そう思うほどに、どうしようもなく惹かれてしまっている、愚かな自分自身が、何よりも許せなかった。
彼女は、若き丞相からの、都へ戻り正式な官職に就くようにという、あまりにも重い要請に対する返事を書けずにいた。丞相の鳥籠に入ることも、姜維のいない建寧へ帰ることも、今の彼女にはどちらも地獄のように思えた。
そんな二人の冷たい冬のような関係が続く中、まるで彼らのささやかな不幸をあざ笑うかのように、北の漢中から一羽の疲れ切った早馬が、緊急の、そして不吉な報せを携えて成都へと駆け込んできたのだ。
その日の朝、玉蘭は一人、丞相府から与えられた自室で、窓の外を流れる雲を、ただぼんやりと眺めていた。何も手につかない。建寧の未来を描いた計画書も、机の隅で埃を被っている。
そこに、けたたましい足音と共に、彼女付きの侍女が血相を変えて駆け込んできた。
「姫様! 大変なことにございます! 北の国境より、緊急の伝令が!」
その切迫した声に、玉蘭の心が、どくんと嫌な音を立てた。
ほとんど時を同じくして、丞相府の使者が彼女の部屋の扉を叩いた。「玉蘭様、並びに衛将軍! 大将軍・費禕様、並びに丞相閣下より、緊急のご召集にございます! 直ちに、大広間へ!」
玉蘭が、重い足取りで丞相府の大広間へと向かうと、そこには既に、蜀漢の主だった重臣たちが、緊張した面持ちで集まっていた。その中には、鎧姿の姜維もいた。彼の顔は、いつもの鉄仮面のように無表情だったが、その瞳の奥には、将軍としての鋭い警戒の光が宿っていた。二人の視線が一瞬だけ交錯したが、すぐに互いを避けるように逸らされた。
やがて、上座に諸葛瞻が姿を現した。その隣には、病のためか顔色の優れない、大将軍・費禕の姿もあった。国の非常事態に、二人の最高指導者が揃って臨席しているのだ。
「皆、よく集まってくれた」
諸葛瞻は、手に持った一枚の羊皮紙を広げ、静かに、しかしその場にいる全ての者の心臓を凍りつかせるような声で、言った。
「――今しがた、漢中の前線基地より報告があった。敵国、魏が、鄧艾を総大将とする十万の大軍を以って、国境を越え、我が国の北の要衝、剣閣に大規模な侵攻を開始した、と」
しん、と。
大広間が、水を打ったように静まり返った。
戦争。
そのあまりにも重く冷たく、そして現実的な響きが、玉蘭の、傷ついてささくれ立っていた個人的な世界を、一瞬にして粉々に打ち砕いた。
彼女の脳裏で、糜照との口論も、丞相との取引も、そして姜維との痛ましいすれ違いさえもが、色褪せて遠のいていく。それらは全て、この「国家の存亡」という巨大な現実の前では、あまりにも些細な、平和な時代の感傷に過ぎなかった。
諸葛瞻は、動揺する重臣たちを一瞥すると、言葉を続けた。
「つきましては、ここに軍令を下す」
彼の視線が、真っ直ぐに姜維を射抜いた。
「衛将軍・姜維は、直ちに配下の兵を率い、先遣隊として剣閣へと向かい、現地の防衛軍と合流せよ。敵の進軍を、一刻たりとも食い止めるのだ」
出撃命令。
玉蘭の美しい顔から、さっと血の気が引いていく。頭の中が真っ白になり、心臓がまるで氷の塊になったかのように冷たく重くなった。
彼が、戦場へ行ってしまう。
人を殺し、そして自分も殺されるかもしれない、あの血と絶望に満ちた地獄のような場所へ。
しかも、こんな、最悪なすれ違いを起こしたまま。さよならも、ごめんなさいも、ありがとうさえも、言えないまま。
後悔という、鋭い刃が、彼女の胸を内側から抉るようだった。
姜維は、丞相の命令に、微動だにせず、ただ一言、短く応えた。
「――御意」
彼は、丞相に深く一礼すると、踵を返した。その動きには、一切の迷いも、感情の揺らぎも見られない。彼はもはや、玉蘭の護衛ではない。蜀漢の未来をその双肩に担う、一人の将帥の顔に戻っていた。
彼は、一度も玉蘭の方を振り返ることなく、大広間を去っていった。
その、あまりにも決然とした背中が、玉蘭の目には、永遠の別れを告げているかのように映った。
その日の午後、成都の城外にある練兵場は、出撃の準備でこれまでにないほど騒然としていた。兵士たちの怒声、馬のいななき、武具のぶつかり合う金属音。その全てが、玉蘭の心を焦燥で満たした。
彼女は、館の自室に、ただ一人閉じこもっていた。
何も手につかない。
失うことの恐怖。
彼がもう二度と、この美しい場所へ帰ってこないかもしれない。
その想像が、まるで冷たい遅効性の毒のように、彼女の全身をじわじわと蝕んでいく。
プライドも、意地も、すれ違いの痛みも、もうどうでもよかった。
ただ、このまま彼を行かせてしまったら、わたくしは一生後悔する。たとえ、彼に罵られようと、無視されようと、最後に伝えなければならない言葉がある。
彼女は、意を決して館を飛び出した。
行き先は、一つしかない。
姜維が、今まさに、その最後の準備を整えているであろう、城外の軍営。
彼女は、皇女の身分も忘れ、供も連れず、ただ一人、夕暮れの都を、彼の元へとひた走るのだった。
引き裂かれた二人の心が、再び交錯するまで、残された時間は、もういくらもなかった。