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第2話:辺境の聖域

第2話:辺境という名の聖域

 前代未聞の婚約破棄劇の翌朝。

 都は、水面下で激しい嵐に見舞われていた。玉蘭の行動は、糜家と黄皓派に対する、皇室からの明確な宣戦布告と受け取られた。宮中は、皇帝派と黄皓派に二分され、いつ内乱が勃発してもおかしくない、一触即発の状態に陥っていた。

 そんな中、玉蘭は、父である皇帝・劉禅に呼び出された。

 書斎の空気は、重く張り詰めている。

 窓の外に背を向けて立つ父、劉禅。その背中が、無言のうちに彼女が引き起こした事態の深刻さを物語っていた。

「昨夜の件、聞いた」父の声は、失望よりも、むしろ深い疲労に満ちていた。「そなたは、自分が何をしたかわかっておるのか。そなたは、ただの婚約を破棄したのではない。この国に、内乱の火を放ったのだ」

「ですが、父上! あの男は、わたくしを、漢室を、侮辱いたしました!」

「それゆえ、だ!」劉禅は、初めて激しい声で彼女を遮った。「それゆえに、そなたは今、この都で最も危険な存在となったのだ!」

 彼は、ゆっくりと振り返った。その顔には皇帝としての威厳はなく、ただ、娘の身を案じる一人の父親の苦悩が浮かんでいた。

「玉蘭よ。黄皓たちは、今やなりふり構わぬだろう。そなたを暗殺し、その死を政敵のせいにするやもしれぬ。あるいは、逆にそなたを『悲劇の皇女』として担ぎ上げ、内乱の旗印として利用するやもしれぬ。どちらに転んでも、そなたも、そしてこの国も、滅びる」

「では、わたくしはどうすれば……」

「……都を、離れよ」劉禅の声は、苦渋に満ちていた。「これは、罰ではない。そなたの身を守り、そしてこの国を内乱から守るための、唯一の、最後の策だ」

「父上……」

「表向きは、皇室の名を汚したそなたへの、懲罰としての左遷とする。行き先は、我が国の南の果て、『建寧郡』だ」

 建寧郡。その名を聞いた瞬間、玉蘭の心臓が、どくんと重い音を立てた。あの辺境。

 それは、表向きは最も屈辱的な「罰」。

 だが、その裏にある父の真意を、彼女は瞬時に理解した。

 建寧は、都から最も遠く、黄皓たちの権力基盤が最も及ばない土地。そして、皮肉にも、彼女の「神の血」が、いまだ漢に心服せぬ南中の民に対して、未知数の影響力を持つかもしれない、唯一の場所。

 これは、「聖域への退避」なのだ。

 父は、娘を、そして国を守ろうとしている。そのために、非情な為政者の仮面を被って。

 玉蘭の心の中で、昨夜燃え上がった反骨の炎が、より複雑で、そして重い覚悟の炎へと姿を変えた。

「――お受けいたしますわ、父上」

 その凛とした声に、父の瞳がわずかに揺らいだ。

「望むところでございますわ。この陰謀渦巻く都で、誰かに殺されるか、誰かの人形にされるのを待つのは、もううんざりですもの」

 彼女は、あえて挑発的な、しかしどこまでも優雅な笑みを唇に浮かべた。

「これからは、わたくし自身の力で生きていきたいのです。わたくしに流れるこの『神の血』が、本当に民を導く力を持つものなのか、あるいは、ただの忌まわしい呪いなのか。それを、この身で確かめるための、絶好の舞台ではございませんこと?」

 その言葉は、もはや単なる強がりではない。自らの宿命と向き合うことを決意した、一人の女の覚悟の表明だった。

 玉蘭のその毅然とした態度に、父は一瞬言葉を失った。そして、やがて、安堵と誇りと、そして娘を危険な道へと送り出す哀しみが入り混じった、深いため息を一つだけついた。

「……行け。そして、生き延びよ。そなたが真に『神の子』であるならば、この逆境を力に変えてみせよ」

「ご心配には及びませんわ。わたくし、父上が思っているよりも、ずっとしぶとくできておりますので」

 玉蘭は、これ以上ないほど完璧な礼をしてみせた。その姿には、傷ついた皇女の面影はもはやどこにもなかった。

 出発の準備は、異様なほどの迅速さで、秘密裏に進められた。

 彼女が持ち出すのは、華美な衣服や宝飾品ではない。乗馬服と、そして父が、密かに彼女に託した一つの木箱だった。中には、かの諸葛亮孔明が遺したという、国の行く末を左右しかねない極秘の古文書の山が納められていた。その中には、未完の『南中開発計画書』だけでなく、対魏防衛戦略を記した『北境治水要録』など、丞相府の書庫にさえない貴重な写しが含まれている。それは、娘の才覚を信じた父からの、最後の贈り物であり、そして呪いでもあった。

 出発の朝、見送りに来たのは、父と母、そして老宦官の趙忠だけ。

 重々しい音を立てて都の門をくぐり抜け、南へと続く街道に入った時、玉蘭は深く、深く息を吸い込んだ。土と草の匂いが混じった新しい空気が、肺を満たした。

「見てなさい、糜照、黄皓。そして……わたくしをただの駒と見下した、都の男たちすべてよ!」

玉蘭は、南の荒野へと続く地平線に向かって、誰にも聞こえない声で、しかしはっきりと呟いた。

(若き丞相閣下……貴方もまた、わたくしを父の政策のための駒としか見ていないのでしょう? ですが、見ていなさい。わたくしは、誰かの盤上で踊るだけの女ではないということを、いずれ思い知らせてさしあげますわ……!)

「わたくしは、辺境の地でただ息を潜めているだけの女じゃないわ。この手で、わたくし自身の、そして民の楽土を創ってみせる。男にも、家柄にも、そしてこの『神の血』にさえも頼らず、ただ一人の人間として、輝いてみせるんだから……!」

 その誓いは、南の湿潤な風に乗って、遥か彼方へと響き渡っていった。

 神の血を引く皇女の、孤独で、しかし希望に満ち溢れた本当の戦いが、今、静かに幕を開けたのだった。

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