第19話:丞相の鳥籠、忠臣の猜疑
第19話:丞相の鳥籠、忠臣の猜疑
丞相・諸葛瞻の雷のような一撃によって、都に渦巻いていた黒い噂は、まるで嘘のように霧散した。糜照と張姫の一派は失脚し、建寧の「赤珠果」は、再び「丞相お墨付きの逸品」として、以前にも増して都でもてはやされるようになった。
建寧は、危機を脱した。
だが、玉蘭の心は、晴れなかった。
彼女は、丞相からの「提案」を受け入れざるを得なかった。建寧の交易路の安全を保証してもらう代償として、その利権の多くを丞相府に委ね、自らは丞相の監督下で、その運営にあたることになったのだ。
それは、都での地位と名誉を約束された、輝かしい道だった。だが、彼女にとっては、美しく飾られた鳥籠に他ならなかった。
玉蘭の日々は一変した。
彼女は丞相府に頻繁に出仕し、諸葛瞻と二人きりで、建寧の未来について、そして蜀漢全体の経済政策について、熱心に議論を交わすようになった。その時間は、知的興奮に満ち満ちた刺激的なものではあった。彼の頭脳は恐ろしいほどに明晰で、彼女の荒削りな発想を、次々と現実的な政策へと昇華させていく。
だが、同時に、彼女の繊細な神経をじりじりとすり減らすものでもあった。彼のあの恐ろしいほどの慧眼は、常に彼女の心の奥底までを見透かそうとしているようで、一瞬たりとも気が抜けなかった。そして、時折彼が見せる、自分を「手に入れた駒」として見るかのような、満足げな微笑みが、彼女の誇りを静かに傷つけた。
(わたくしは、この人の手の中で踊らされているだけなのではないか…)
その疑念が、常に彼女の胸に渦巻いていた。
その様子を、姜維は、苦々しい思いで見つめていた。
あの夜、確かに心を通わせたはずだった。彼女を守ると誓ったはずだった。だが、今の自分にできることは、丞相府へ向かう彼女の馬車の、数歩後ろを黙って歩くことだけ。彼女が、自分のものではない、巨大な力に飲み込まれていくのを、ただ無力に見ていることしかできなかった。
彼の心には、決して癒えることのない、深い傷があった。
数年前、北伐のある重要な作戦でのことだ。彼は、信頼していたはずの都の貴族からの偽情報によって、敵の罠の真っ只中へと誘い込まれた。結果、彼は多くの、家族同然だった部下たちを失った。その貴族は、裏で魏と通じ、自らの保身のために姜維を売り払ったのだ。
そのトラウマが、彼に根深い貴族への、そして都の権力そのものへの、拭い難い不信を植え付けていた。
玉蘭だけは違うと、信じたかった。
だが、彼女が日に日に丞相と親密になり、都の権謀術数の中でその才覚を発揮していく姿を見るたびに、彼の心の闇は、少しずつ、しかし確実に、その濃度を増していく。
(彼女も、結局は……。都の甘い蜜に、その魂を蝕まれていくのか……)
その危惧は、彼女を失うことへの恐怖と表裏一体だった。彼は、彼女を気にかければかけるほど、彼女が遠い世界へ行ってしまう恐怖に苛まれていた。
その夜も、玉蘭は諸葛瞻との長い議論を終え、疲れ切った体で自室に戻ってきた。
机の上には、姜維が黙って置いていったのであろう、湯気の立つ温かい薬湯が置かれていた。彼の不器用な優しさが、かえって玉蘭の胸を締め付ける。
彼女は、諸葛瞻から渡された、建寧の新たな交易路に関する豪奢な羊皮紙の地図を広げた。そこに描かれているのは、壮大な未来。だが、それはもはや、彼女一人の夢ではなかった。丞相の、巨大な国家戦略の一部だった。
彼女が、その地図を食い入るように見つめているのを、部屋の入口に佇んでいた姜維は、見てしまった。
彼の目には、その真剣な横顔が、自らが手の届かない、遠い世界へ行ってしまうかのように見えた。彼女は、もはや建寧の土の匂いを忘れ、都の権力という甘い蜜の味に夢中になっているのだ、と。
過去のトラウマが、彼の心を蝕む。かつて信じた友に裏切られ、多くの部下を失ったあの日の光景。目の前の彼女が、都の権力という甘い蜜に染まり、いずれ自分を裏切るのではないかという、根拠のない、しかし拭い去ることのできない恐怖。現在の無力感と未来への絶望が、その黒い猜疑心に火を注ぎ、臨界点に達した。
「……随分と、熱心だな」
姜維の口から、抑揚のない声が漏れた。
「姜維……!? なぜ、そこに…」
玉蘭は驚いて振り返った。
「丞相閣下とのお話は、楽しかったか」彼の声には、抑えようのない苦々しさが含まれていた。「その地図は、そなたの夢か。それとも、丞相閣下の野心か」
彼の言葉は、あまりにも唐突で、そして刃のように鋭かった。
(違う…! わかってほしいのは、この人の隣にいるために、この都で必死に戦おうとしている、わたくしの覚悟なのに…!)
あの夜、芽生えてしまった淡い想い。この人だけは、わたくしの本当の姿を見てくれると信じた、あの温かい時間。その全てが、彼のたった一言で、無残にも踏み躙られていく。
結局、この人も同じだった。他の男たちと同じように、わたくしを『都の人間』という型にはめて、断罪するのだ。
「……っ!」玉蘭の翠玉の瞳から、最後の拠り所さえも打ち砕かれた、深い孤独と絶望の涙が、一筋こぼれ落ちた。「違う……! わたくしは…!」
「これ以上、俺を惨めにするのはやめていただきたい」
「あなただけには、信じていてほしかった……!」
玉蘭の悲痛な叫びも、彼の閉ざされた耳には届かなかった。
姜維は、彼女の傷ついた顔を見て、はっと我に返った。自分は、とんでもないことを口にしてしまった。自らの心の闇で、この世で最も大切にしたいと願い始めた女性を、深く、深く傷つけてしまった。
だが、一度口から出た言葉は、もう取り消せない。
彼は、どうしようもない自己嫌悪に唇を噛みしめ、何も言えずに、その場から逃げるように立ち去った。
二人の間に、これ以上ないほど冷たく、そして深い亀裂が入ってしまった瞬間だった。
丞相の鳥籠の中で、玉蘭は真の孤独を知った。そして忠臣は、自らの猜疑心という牢獄に、その心を閉じ込めてしまった。
運命は、彼らが最も弱っているその瞬間を、見逃しはしなかった。北の国境から、新たな戦雲が、すぐそこまで迫っていることを、まだ二人は知らなかった。