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第18話:丞相の贈り物、その代償

第18話:丞相の贈り物、その代償

 玉蘭が姜維の逞しい肩に身を預けたまま、ほんの束の間の浅い眠りから覚めたのは、東の空がインクを垂らした水のようにじわりと白み始める頃だった。

 目を開けた瞬間、自分が誰かの重く温かい外套にくるまっていること、そしてその温もりの主が、まるで石像のように固まったまま一睡もせずに自分を支え続けてくれていたことに気づき、彼女のその白い頬にさっと美しい朱が走った。

「……っ!」

 慌ててばっと体を起こすと、姜維が静かに目を開けた。彼のその黒曜石の瞳には深い深い疲労の色が滲んでいたが、玉蘭を見つめるその眼差しは、もはや氷のようではなく、驚くほど穏やかで、そして慈しみに満ちていた。

「……起きたか」

「な、なによ! なぜ、起こしてくれなかったのよ!」

 玉蘭は、そのどうしようもない照れ臭さを隠すために、思わずいつものように棘のある言葉を口にした。だが、その声にはもう、以前のような刺々しさはない。

「そなたが、本当に久しぶりに安らかな顔で眠っていたからだ」

 姜維はこともなげにそう言った。そのぶっきらぼうな言葉には何の他意もなかったのだろうが、玉蘭の可哀想な心臓は、またしてもトクンと不規則に大きな音を立てた。

 短い、しかし深い休息と、そして心の澱を全て吐き出すかのような涙を流したことで、玉蘭の心は昨日までの絶望的な重さから少しだけ解放されていた。

 絶望している暇などない。やるべきことは、まるで巨大な山のように目の前にそびえ立っている。

 彼女は気持ちを無理やり切り替えると、隣に座る姜維に、初めて助けを求めるように、その瞳を向けた。

「姜維…わたくしは、どうすればいいと思う?」

 その問いに、姜維は静かに答えた。

「噂の出所を、叩くしかない。証拠を掴み、敵の嘘を暴くのだ」

「でも、丞相は証拠がないと動けないと…」

「丞相が動けぬのなら、我々が動くまでだ」姜維の声には、確かな力がこもっていた。「私の配下には、影働きに長けた者もいる。丞相府とは別の経路で、必ずや証拠を掴んでみせる。だから…」

 彼は、玉蘭の手を、そっと握った。

「…だから、もう一人で抱え込むな。俺を、信じろ」

 玉蘭は、その温かい手に、力強く頷き返した。

 だが、彼らが行動を開始するよりも早く、事態は予期せぬ方向へと動き出した。

 その日の昼過ぎ。丞相府からの使者が、玉蘭と姜維の元を訪れたのだ。

「丞相閣下より、緊急のご命令です。直ちに、丞相府へご出仕召されよ、と」

 二人が訝しみながら丞相府へ向かうと、そこには既に、糜照と張姫、そしてその一派の者たちが、真っ青な顔で引き据えられていた。

 上座に座る諸葛瞻は、涼しい顔で二人を迎えた。

「やあ、来たかね、二人とも。良い知らせだ。君たちを悩ませていた、忌々しい噂の出所が、ようやく判明したよ」

 諸葛瞻は、羽扇で糜照たちを指し示した。

「この者たちが、黄皓と結託し、国政を壟断しようと画策。その手始めに、私の庇護下にある君の名を貶め、建寧の経済を混乱させようとした。その、動かぬ証拠が、今朝方、私の元へ届けられてね」

 彼が合図すると、側近の馬遵が、数々の書状や証言者のリストを二人の前に広げてみせた。それは、完璧な、誰にも言い逃れのできない証拠の山だった。

「そ、そんな…! 我らは知らぬ! 罠だ、丞相の罠だ!」

 糜照が見苦しく叫ぶが、諸葛瞻は冷ややかに一瞥するだけだった。

「この者どもは、法に則り、厳正に処罰する。これで、建寧の危機も去るだろう。よかったな、玉蘭様」

 玉蘭は、そのあまりに鮮やかすぎる解決劇に、言葉を失った。

 姜維は、諸葛瞻の顔を、鋭い視線で見つめていた。

(…おかしい。これほどの証拠を、これほど短時間で。まるで…全てを知っていたかのようだ…)

 その通りだった。

 諸葛瞻は、最初から全てを知っていたのだ。噂が流れ始めたその日から、彼は密偵を使い、糜照たちの動きを完全に把握していた。彼は、いつでも彼らを断罪することができた。

 だが、彼はそうしなかった。

 彼は、玉蘭が自力で解決しようともがき、苦しみ、そして絶望の淵に沈むのを、ただ静かに、そして冷徹に、待っていたのだ。

 彼女が、心身ともに完全に追い詰められ、誰かにすがるしかなくなった、その最高の瞬間に、この「救済」という名の贈り物を届けるために。

 諸葛瞻は、呆然とする玉蘭の前に立つと、その耳元で、彼女にしか聞こえない声で囁いた。

「…どうかな、玉蘭様。これで、お分かりいただけたかな」

 その声は、甘く、そして悪魔のように冷たかった。

「正義も、努力も、この都では無力だ。全てを支配するのは、情報と、力。そして、それらを、いつ、どのように使うかという、タイミングだけだ。君が私の手を取れば、君は常に、勝者の側にいることができる」

 玉蘭は、全身の血が凍りつくのを感じた。

 この男は、わたくしを助けたのではない。

 わたくしの心を、完全に支配するために、この状況を創り出したのだ。

 彼女は、丞相からの「贈り物」の、本当の意味を理解した。それは、彼女の苦境を救うものではなく、彼女の魂を縛る、黄金の鎖だった。

 彼女は、もはや彼の手の内から逃れることはできない。

 この大きな恩義は、彼女が彼の駒として忠誠を尽くすことでしか、返せないのだ。

 姜維は、二人の様子と、玉蘭の青ざめた顔を見て、全てを察した。彼の胸に、激しい怒りと、そしてどうしようもない無力感が込み上げてきた。

 自分は、彼女を救えなかった。

 結局、彼女を救ったのは、この恐ろしい丞相の、絶対的な力なのだ。

 彼は、玉蘭を守ると誓ったばかりだというのに。

 丞相からの贈り物は、確かに建寧の危機を救った。だが、その代償として、玉蘭と姜維の絆の上に、新たな、そしてより深刻な葛藤の影を、深く、深く落としたのだった。

 二人の戦いは、終わってはいなかった。むしろ、より大きな、抗いがたい力に飲み込まれ、今、本当の意味で始まったばかりだった。

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