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第17話:凍てついた心を溶かすもの

第17話:凍てついた心を溶かすもの

 都の夜は、建寧のそれとは違い、どこまでも明るく、そして騒がしかった。だが、皇宮の一角にある玉蘭の部屋だけは、まるで深海のように、冷たく、重い静寂に支配されていた。

 黒い噂が都を覆い尽くしてから、十日が過ぎた。

 玉蘭は、心身ともに限界に達していた。眠れない夜が続き、食事も喉を通らない。鏡に映る自分の顔は、まるで幽鬼のように青白く、かつての輝きは見る影もなかった。建寧から届く書簡は、日を追うごとに絶望の色を濃くしていく。民の不安、滞る交易、そして「姫様は我々を見捨てたのではないか」という、か細い、しかし鋭い刃のような疑念の声。

 打つ手は、何一つなかった。

 その夜も、玉蘭は執務室で、返事を書くこともできない建寧からの書簡を前に、ただ呆然と座っていた。蝋燭の炎が、ゆらりと揺らめき、壁に彼女のか弱い影を映し出す。

(もう、だめかもしれない……)

 初めて、彼女の心に「諦め」という言葉が、冷たい染みのように広がった。

(わたくしには、荷が重すぎたのだわ。丞相の言う通り、わたくしは一人では何もできない、ただの未熟な小娘だったのよ……)

 ぷつり、と。

 彼女の中で、かろうじて保っていた緊張の糸が、音を立てて切れた。

 立ち上がろうとしたその瞬間、ぐらりと視界が大きく揺れ、彼女の体はバランスを失い、床に崩れ落ちそうになった。

 その時だった。

 今までずっと、部屋の隅の暗がりに、石像のように佇んでいた影が、疾風のように動いた。

 彼女の体が床に打ち付けられる寸前、鋼のように強靭な腕が、彼女の体を力強く、しかしどこまでも優しく支えた。

「……っ!」

 玉蘭がはっと顔を上げると、そこには、今まで見たこともないほど苦しげな表情を浮かべた、姜維がいた。

 彼の氷の仮面は、完全に砕け散っていた。その黒曜石の瞳には、彼女の憔悴しきった姿を映し、深い痛みと、抑えきれないほどの後悔の色が浮かんでいた。

「……一人で抱え込むなと、言ったはずだ」

 彼の声は、低く、掠れていた。

 玉蘭は、彼の硬い胸に顔をうずめるような形になりながら、か細い声で悪態をついた。

「……余計な、お世話よ…。わたくしは、大丈夫だって、言ってるでしょ…。離して…」

 だが、その声には、もはやいつものような棘はない。ただ、迷子の子供のような、か弱い響きがあるだけだった。

「大丈夫な者が、そんな死人のような顔をしているか」

 姜維は彼女を支えたまま、ゆっくりと近くの長椅子へと彼女の体を運んだ。そして、彼女の隣に、深く腰を下ろした。

 もう、彼には限界だった。

 任務も、彼女のプライドも、拒絶された過去も、もうどうでもよかった。

 ただ、目の前で、愛する女が、その魂の光を失い、壊れていこうとしている。その事実が、彼を縛っていた全ての枷を、粉々に打ち砕いた。

「すまなかった」

 姜維は、絞り出すように言った。

「俺が、お前を独りにさせた。お前が一番苦しい時に、手を差し伸べることもしなかった。俺は、臆病者だ」

 その、あまりにも真摯な謝罪の言葉に。

 玉蘭の目から、ずっとずっとこらえていた涙が、一筋、ぽろりとこぼれ落ちた。

「……違う」彼女はか細く首を横に振った。「わたくしが、悪いのよ…。あなたを、信じなかったから…」

「どうしたらいいのか、もうわからないのよ……」

 それは彼女が生まれて初めて、誰かに見せた、本物の弱音だった。

 彼女は、まるで堰を切ったように、その胸の内を吐き出し始めた。

「わたくしが夢を見させたばかりに、みんなをこんな酷い目に……。わたくしがもっとしっかりしていれば……。でも、もう、どうすればいいのか……っ」

 それは彼女がずっと胸の内に一人で溜め込んでいた、深い深い後悔と自責の念だった。

 姜維は、何も言わなかった。

 ただ黙って、彼女のか細く震える肩を、その大きな手で、そっと、壊れやすいガラス細工を扱うかのように、包み込むように抱いた。

 その温かさに、玉蘭の心のダムがついに決壊した。

「……っ、う……ぅぅ……っく……」

 彼女は、まるで迷子の子供のように声を上げて泣きじゃくった。民たちの前では決して見せることのできなかった弱い弱い素顔の自分を、この不器用な将軍の前でだけは、全てさらけ出していた。

 姜維は、そんな彼女を、ただ静かに、そして力強く抱きしめ続けた。

 彼は、彼女が泣き止むまで、何度も、何度も、その背中を優しくさすってやった。彼にできるのは、ただ彼女の痛みを共有し、そばに居続けることだけだった。

 どれほどの時間が経っただろうか。

 玉蘭の激しい嗚咽が、やがてすうすうという穏やかな寝息に変わっていた。彼女は、泣き疲れて、彼の肩に寄りかかったまま、眠ってしまったのだ。

 姜維は、その涙の跡が痛々しい、あどけない寝顔を見下ろしながら、自分の黒い外套を脱ぐと、そっと彼女の冷えた体に掛けてやった。


浅い眠りの中で、玉蘭は彼の温もりを感じていた。都の男たちの、下心のある甘い言葉でも、民からの期待という重圧でもない。ただ、不器用で、無骨で、けれどどこまでも真摯な、一人の男の温もり。

(この人は、わたくしを『皇女』や『神の子』としてではなく、ただの弱くて泣き虫な一人の女として、受け止めてくれている…)

その事実に、彼女の凍てついた心の、最も深い部分が、静かに溶けていく。そして、気づいてしまった。この、どうしようもないほどの安心感は、ただの信頼ではない。この無骨な腕の中に、ずっといたいと願ってしまっている自分がいる。この男の隣でなら、自分はただの玉蘭でいられるのかもしれない、と。それは、生まれて初めて抱く、甘く、そして恐ろしいほどの感情だった。


 彼は、動かなかった。彼女を起こさないように、まるで石像のように、その場に座り続けた。

 窓の外では、都の夜が更けていく。

 彼は、眠っている彼女の髪を、そっと撫でた。

(一人ではないと、言っている)

 彼は、心の中で、彼女に語りかけた。

(お前が俺を必要としないとしても、俺はここにいる。お前が背負う荷が重すぎるというのなら、その半分を、いや、全てを、この俺が背負おう)

 凍てついていた二人の心は、この夜、ようやく溶け始めた。

 それは、甘い恋の始まりではない。

 互いの弱さも、痛みも、全てを受け入れ、共に歩むことを決意した、魂の伴侶としての、静かで、しかし何よりも強い絆が生まれた瞬間だった。

 絶望の夜は、まだ明けない。

 だが、その深い深い闇の中に、確かな絆という名の小さな小さな灯火が、確かに灯っていた。そして、この灯火こそが、彼らを次なる過酷な運命へと導く、道標となるのだった。

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