第16話:黒い噂、届かぬ声
第16話:黒い噂、届かぬ声
あの忌まわしい宴での出来事以来、玉蘭と姜維の関係は、冷たく、そして決して溶けることのない氷の壁に閉ざされてしまっていた。
二人は、公の場で顔を合わせても、言葉を交わすことはない。ただ、互いの存在を無視するかのように、冷たい視線を交わすだけ。姜維は、自らの感情を完全に封印し、完璧な「護衛」という名の石像と化した。玉蘭もまた、傷つけられたプライドと後悔の念から、意地でも彼に話しかけようとはしなかった。
都のねっとりとした蜘蛛の巣のような空気に、玉蘭は心の底からうんざりしていた。早く、一刻も早く、建寧に帰りたい。だが、丞相からの正式な許可が下りるまで、彼女はこの息の詰まる鳥籠から出ることはできなかった。
そんな二人の冷たい冬のような関係が続く中、遠い都から、新たな、そしてより陰湿な嵐が届けられた。
その嵐は、目に見えるものではなかった。それは、人の口から口へと伝わる、甘い毒のような「噂」という姿をしていた。
発端は、建寧で玉蘭が手配した行商人から届いた、一通の緊急の手紙だった。彼は、玉蘭の指示通り、都の食通や貴婦人たちの間で「赤珠果の醤」の評判を広めることに成功していた。だが、その手紙には、信じがたい、そしてあまりにも悪意に満ちた内容が記されていた。
『玉蘭様、ご無沙汰しております。都での赤珠果の評判は、丞相閣下がお墨付きを与えてくださったこともあり、依然として上々でございます。しかし、近頃極めて由々しき悪質な噂が流れ始めておりますので、一刻も早くご報告せねばと筆を取った次第です』
玉蘭は、心臓がどくんと嫌な音を立てるのを感じながら、続きを読む。
『――先日、建寧郡で発生したあの恐ろしい疫病は、何を隠そう、あの“赤珠果”が本当の原因だったというのです。あの美しい赤い実は、見た目は綺麗だが実は南中の呪われた土地の邪気をたっぷりと吸って育つ“呪いの果実”であり、食べ続ければやがては体を内側から蝕み、恐ろしい病を引き起こす、と……』
手紙が、玉蘭の震える手の中でくしゃりと無残な音を立てた。
「……なんですって……?」
喉から絞り出すような声が漏れた。
まず彼女の心を襲ったのは、故郷の民の安否への、身を切るような不安だった。
(疫病…! まさか、あの熱病が、まだ…!? 董和は、孟安は、そして民たちは無事なの…!?)
彼女はすぐさま建寧へ早馬を出すよう侍女に命じようとし、はっと息を飲んだ。
違う。これは、そういうことではない。
疫病の本当の原因は井戸水の汚染だったと、宮中の医官たちによってとっくに証明されているではないか。これは、その事実を捻じ曲げ、わたくしたちの希望を呪いに変えようとする、卑劣な罠なのだ。
続けて手紙を読むと、その予感は確信に変わった。
『この悪意に満ちた噂はまるで計算されたかのように、瞬く間に都の貴族たちの奥方様の茶会から広まり、今では人々は赤珠果を気味悪がって買い控えを始めております。先日まであれほど熱狂していたのが、まるで嘘のようでございます。噂の出所を探りましたが、極めて巧妙に情報が操作されており、特定には至っておりません。しかし、この噂を最も声高に、そして楽しげに吹聴しているのが、あの張姫とその取り巻きたちであることは間違いございません』
張姫。
その忌まわしい名を耳にした瞬間、玉蘭の中で全ての点が一本の黒い悪意の線で繋がった。
糜照と通じていた、あの女。そして、その後ろにいるであろう糜照の一派と、宦官・黄皓。
彼らがこのわたくしを、そしてわたくしに寵愛を示す丞相を貶めるために、こんな悪質で卑劣なデマを流しているのだ。
「……あの、性悪女……っ!」
玉蘭は怒りで奥歯をギリリと強く噛みしめた。
これは単なる嫌がらせではない。
建寧郡の経済基盤を、そして皆がようやく掴みかけた未来を、根こそぎ破壊しようとする明確な宣戦布告だ。
彼女はすぐさま、この事態を諸葛瞻に報告した。
諸葛瞻は、彼女の報告を聞いても、涼しい顔一つ崩さなかった。
「想定内のことだ。君が私の庇護下に入れば、彼らが黙っているはずがない。だが、証拠がない。噂だけで彼らを断罪することは、法を司る私の立場ではできん」
「では、どうすれば…!」
「君自身の手で、その潔白を証明してみせるのですよ、玉蘭様」諸葛瞻は、まるで彼女を試すかのように言った。「君が真に『宝』であるならば、この程度の逆境、乗り越えられるはずだ」
彼は助けてはくれなかった。これもまた、彼女の価値を測るための「査定」なのだ。
玉蘭は、完全に孤立無援となった。
都から遠く遠く離れた建寧の地から、一度広まってしまった悪意の噂を打ち消すことなどできるはずもない。
事実、数日後には都からの商人たちの足はぱったりと途絶えてしまった。山のように収穫された美しい赤珠果は、買い手がつかないまま倉庫に虚しく積まれていく、という報告が建寧から届き始めた。
民たちの間にも、再び暗い暗い不安と動揺が広がり始めているだろう。希望の象徴だったはずのあの美しい赤い実が、今や不吉な存在として彼らの純朴な心をじわじわと蝕み始めているに違いない。
玉蘭は、必死に建寧へ指示を送る書簡を書いた。
「そんな根も葉もないくだらない噂、信じる必要はないわ! これはわたくしたちの宝よ!」
気丈にそう書きながらも、彼女の心は焦りとどうしようもない無力感で押しつぶされそうだった。
見えない敵からの陰湿な攻撃。
それは剣を交える直接的な戦いよりも、ずっとずっと厄介で、そして人の心を内側から蝕んでいく。
どうすればいいのか。打つ手が何一つないまま、ただ無情に時間だけが過ぎていく。
玉蘭は夜もろくに眠れず、一人執務室で頭を抱える日が増えていった。その美しい顔からは血の気が失せ、目の下の隈は日に日に濃くなっていく。
そんな彼女の苦悩し、憔悴しきった姿を、姜維は遠くからただ黙って見つめていた。
都での悪質な噂のことも、彼の耳にはもちろん入っていた。それが玉蘭を深く深く追い詰めていることも、痛いほどわかっていた。
彼は、彼女を助けたかった。自分の情報網を使えば、噂の出所を特定し、証拠を掴むこともできるかもしれない。
だが、彼には何もできなかった。
あの夜、彼女は言ったのだ。「あなたはただ、黙ってわたくしを守るという、あなたの任務だけを遂行していればいいのよ!」と。
彼女は、自分の助けを拒絶した。
下手に手を出せば、また彼女のその高いプライドを傷つけ、彼女をさらに追い詰めることになるかもしれない。そう思うと、彼は一歩を踏み出すことができなかったのだ。
彼は、彼女の「命令」通り、ただの「護衛」として、彼女が助けを求めてくるのをじっと息を殺して待つことしかできなかった。
それは彼にとって、まさに拷問に近い苦しい時間だった。愛する女がすぐ目の前で苦しんでいるのに、手を差し伸べることすら許されない。
玉蘭の元には、誰の声も届かない。
姜維の声もまた、彼女には届かない。
二人は、同じ屋根の下にいながら、それぞれがそれぞれの孤独の牢獄に囚われ、絶望の闇の中を彷徨っていた。そして、その闇が最も深くなった時、彼らにとって最も残酷な形で、次なる一手が突きつけるのであった。